7月20日の昼飲み会&八尾市寺内町巡り-1
7月25日 7月20日の昼飲み会&八尾市寺内町巡り-1
昼飲みてくてくマップ大阪11 歩程約9㎞
此の日の昼飲み会ハイキングには、近鉄てくてくマップ大阪11をのコースを少し変更して
歩程約9㎞に短くして、16時からの昼飲み会に備えて、K場さんM吉さんと3名で歩いた。
コースは
河内山本駅~八幡神社~玉串川~御野縣主(みのあがたぬし)神社~玉串川~第二寝
屋川~山口重信墓~木村重成墓~八尾市埋蔵文化センター~西都神社~恵光寺~楠
根川緑地公園(昼食)~近鉄八尾駅へ
近鉄八尾駅→天王寺駅~湯処・あべの橋~天王寺駅~居酒屋 甘太郎会費@2600円
参加者5名 ・K場さん川さんM吉さんR得さんと私の5名、他に飛び入りN田さんご夫婦、
次回からはN田さんご夫婦にも皆さん同様、予約して参加して頂きたいと・・・
此の日の私の万歩計は、21996歩で約16.2km歩いたことに・・・
河内山本駅でスタンプ貰ってスタート
山本八幡宮・・・喪中中の私は神社の外から写真を撮るだけで・・・
誉田別尊(応神天皇)を祀る。近鉄河内山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の
南沿いに所在する、小ぢんまりとした神社である。
享保元年(1716年)、山本新田の開発者である山中庄兵衛正永と、本山弥右衛門重英
(加賀屋)の両人らが石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀され
た。当初は「山本八幡神社」という名称だった。その後、享保13年 (1728) 正月に加賀
屋から泉屋住友吉左衛門へ所有が変わった後には、住友家の尊崇と保護を受け近代ま
で至る。昭和15年(1940年)に住友住宅による山本新田での宅地分譲が終了し、212年
に渡る住友家の地主管理が終了する。その際に住友住宅より東南部分の土地を寄贈さ
れている。同年に玉串川沿いにあった池を埋めたて、社務所が新築される。
昭和31年(1956年)に旧橿原神宮の古材を用いて社殿が改築され、恩智神社の社家で
ある新海(にいみ)氏より専任の宮司を迎え入れている。この頃に旧山本新田住友会所
の建物の移築もあり境内が整備され、「山本八幡宮」と改称し現在に至っている。
※天台院(てんだいいん)・・・次回は是非見てみたい
大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。
山号は紫雲山。作家の今東光が住職を務めたと有るので探して見たが不明?
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂し
ていた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長
野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、
また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小
庵が天台院であるとされている。
昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃
の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほ
ど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。
現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建
てられた。
境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、
「智道の水」として知られている。・・・・・調べた結果はこうだった、次回は是非見たい?
玉串川(たまくしがわ)
玉串川は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大阪府八尾市二俣で長瀬川から
分流。八尾市の中央部を北上し、東大阪市玉串元町で第二寝屋川に合流する。川幅は
おおむね5 mほどで、川岸は石積みまたはブロックで護岸が整備されている。
高度経済成長期には上流の大和川や長瀬川と同様に水質が悪化していたが、流域の各
所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善
や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が
放流された。流域付近は、八尾市柏村の南部に田畑が広がり、近鉄大阪線河内山本駅
付近が商業地となっている以外はおおむね閑静な住宅街となっている。また、二俣付近と
柏村橋付近 - 五月橋交差点、山本橋 - 山本町北七丁目付近までの両岸に桜の木が植え
られている。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生
を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていった
ものである。例年、年3月下旬~4月初旬にかけて桜が満開となる。この桜並木は、「大阪
みどりの百選」にも選ばれている。
ミーヤキャット石造
此処で玉串川を渡り、御野縣主神社へ向う
御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)・・・喪中中の私は外で待機
御野縣主神社は、大阪府八尾市にある神社。式内小社で、旧社格は村社。
旧河内国河内郡上之島村(八尾市上之島地区)の氏神。かつてこの地一帯を支配して
いた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神である。創建の年代は不詳で
あるが、延喜式神名帳に河内国若江郡の御野縣主神社二座と記載されていることから
平安時代以前にはあったとされる。明治5年(1872年)に村社に列せられた。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧大和川)の堤
防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。八尾市の保全樹林に指定
され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
玉串川に戻り、山本交番前へ渡り、左折して第二寝屋川へ向かう
途中の公園でトイレ休憩、
元々恩智川に架っていた石橋(福栄橋)がトイレ横に移築されている
※福栄橋
この石橋は福栄橋とよばれ、大坂の玉造から若江、福万寺をへて大和の竜田を結ぶ
十三街道の恩智川を渡るために架かっていました。かって、この橋があった西側には
寛政12年(1800)に福万寺の人々が建てた橋の供養碑が残されています。 碑には、
大雨による洪水で橋が流失したので、新しく再建したことが記されています。 橋に感
謝して建てられた供養碑としては市内で唯一のものです。 ここに保存されている石
橋は、明治9年4月(1876)に造られたものですが、昭和48年(1973)の恩智川改修
工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高欄部分が残されています。
第二寝屋川沿い
山口重信碑(八尾市幸町)
元和元年(1615)の大坂夏の陣にこの場所で、木村重成の槍に突かれて戦死した
徳川方武将山口重信の碑。三十三回忌にあたり、弟弘隆が建碑したもので、珍し
い亀趺(きふ)の上に建てられ、碑は西面し表に林 羅山の撰文が刻まれているが、
残念ながら破損が激しい。
木村重成墓(八尾市幸町)
元和元年(1615)6月5日早暁、大坂城から若江に進んだ木村重成は、大坂夏の陣
激戦の後この地で戦死し、遺骸はここに葬られて塚がつくられた。宝暦十四年(1764)
重成百五十回忌にその菩提を弔うために墓碑が建立された。墓石を削って飲むと、
勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸くなっている。また
墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮気に効があると
伝えられる。
八尾市立埋蔵文化財調査センター
展示品見学&小休止後西郡天神社へ向う
西郡天神社(にしこおりてんじんじゃ)・・・私は喪中中の外で待機
西郡天神社境内の手水鉢は、錦織廃寺の塔心礎である。この地は錦織連の居住地
でその寺院と伝え、八間堂の字名がある。鎌倉時代の石灯籠の台座が出土した。塔
心礎は高さ60センチ、縦120センチ、横160センチの自然石の中央に、直径67セン
チ、深さ37センチの柱穴があり、なおその中央に直径21センチ、深さ18センチの舎
利孔がある。白鳳時代に属する。
※錦織廃寺
かっての寺領は広大で 北は恩智川まで(300m)有ったとゆうまた本堂、金堂、三重の
塔などを持つ大寺院であった。 錦織連は百済より渡来した織物技術者である。
高塚地蔵 萱振一号墳石碑
※高塚地蔵
市内では第二に古い石仏である。大阪夏の陣のとき、若江合戦で大阪方の吉田内匠が、
この地蔵堂の陰から槍をもってとび出し、東軍の藤堂式部をおそったが、かえって討死し
たという。またこの地からは、古墳時代前期の方形墳が発見されている
※萱振一号墳
河内で発掘された方墳では最大級で大阪府立八尾北高校敷地内にある。物部氏
一族の古墳でないかと考えられている。
恵光寺(えこうじ)
恵光寺は、大阪府八尾市にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。通称「萱振御坊」。
河内国布教途上の蓮如によって建立されたと言われ、蓮如の6男である蓮淳を開基とす
る。建立年ははっきりせず、1470年(文明2年)、1469年〜1489年(文明年間)、1496年
(明応5年)の3説がある(公には1470年を一応の建立年としている)。
戦国時代になると、若江郡萱振は恵光寺を中心とした寺内町の様相を呈するようになり、
環濠もめぐらされた。環濠の一部は現在も残っている。
1574年(天正2年)6月に石山合戦が起こると、萱振の一向衆徒(門徒)は石山本願寺方
に加勢。恵光寺に近接して萱振城とも呼ばれる城砦があった萱振は、河内国における本
願寺勢の拠点となった。1580年(天正8年)8月の石山本願寺陥落とほぼ同時期に恵光
寺は放火・破壊された。
本願寺東西分派に際して西派(本願寺派)に属した。しかし、1685年(貞享2年)に当時の
住職だった寂永は、前住職の准良と共に東派(大谷派)に転じ、摂津国住吉郡平野郷へ
移った(現在の大阪市平野区平野上町にある大徳山慧光寺)。以降、1880年(明治13年)
までの約200年間、恵光寺は無住寺院となる。明治時代末期ごろには別格寺として、また
100以上の末寺を擁していた。
楠根川緑地公園で昼食
近鉄八尾駅へ向かう
天王寺駅へ戻り
湯処・あべの橋で汗を流して居酒屋・甘太郎へ向かう
甘太郎でN田さんご夫婦と会う、次回以降の飲み会をたのしみに・・・
飲み会終了後、二次回は3名でカラオケへ
おまけ?
7月19日の馬見丘陵公園
我家の琉球朝顔
昼飲みてくてくマップ大阪11 歩程約9㎞
此の日の昼飲み会ハイキングには、近鉄てくてくマップ大阪11をのコースを少し変更して
歩程約9㎞に短くして、16時からの昼飲み会に備えて、K場さんM吉さんと3名で歩いた。
コースは
河内山本駅~八幡神社~玉串川~御野縣主(みのあがたぬし)神社~玉串川~第二寝
屋川~山口重信墓~木村重成墓~八尾市埋蔵文化センター~西都神社~恵光寺~楠
根川緑地公園(昼食)~近鉄八尾駅へ
近鉄八尾駅→天王寺駅~湯処・あべの橋~天王寺駅~居酒屋 甘太郎会費@2600円
参加者5名 ・K場さん川さんM吉さんR得さんと私の5名、他に飛び入りN田さんご夫婦、
次回からはN田さんご夫婦にも皆さん同様、予約して参加して頂きたいと・・・
此の日の私の万歩計は、21996歩で約16.2km歩いたことに・・・
河内山本駅でスタンプ貰ってスタート
山本八幡宮・・・喪中中の私は神社の外から写真を撮るだけで・・・
誉田別尊(応神天皇)を祀る。近鉄河内山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の
南沿いに所在する、小ぢんまりとした神社である。
享保元年(1716年)、山本新田の開発者である山中庄兵衛正永と、本山弥右衛門重英
(加賀屋)の両人らが石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀され
た。当初は「山本八幡神社」という名称だった。その後、享保13年 (1728) 正月に加賀
屋から泉屋住友吉左衛門へ所有が変わった後には、住友家の尊崇と保護を受け近代ま
で至る。昭和15年(1940年)に住友住宅による山本新田での宅地分譲が終了し、212年
に渡る住友家の地主管理が終了する。その際に住友住宅より東南部分の土地を寄贈さ
れている。同年に玉串川沿いにあった池を埋めたて、社務所が新築される。
昭和31年(1956年)に旧橿原神宮の古材を用いて社殿が改築され、恩智神社の社家で
ある新海(にいみ)氏より専任の宮司を迎え入れている。この頃に旧山本新田住友会所
の建物の移築もあり境内が整備され、「山本八幡宮」と改称し現在に至っている。
※天台院(てんだいいん)・・・次回は是非見てみたい
大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。
山号は紫雲山。作家の今東光が住職を務めたと有るので探して見たが不明?
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂し
ていた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長
野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、
また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小
庵が天台院であるとされている。
昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃
の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほ
ど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。
現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建
てられた。
境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、
「智道の水」として知られている。・・・・・調べた結果はこうだった、次回は是非見たい?
玉串川(たまくしがわ)
玉串川は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大阪府八尾市二俣で長瀬川から
分流。八尾市の中央部を北上し、東大阪市玉串元町で第二寝屋川に合流する。川幅は
おおむね5 mほどで、川岸は石積みまたはブロックで護岸が整備されている。
高度経済成長期には上流の大和川や長瀬川と同様に水質が悪化していたが、流域の各
所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善
や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が
放流された。流域付近は、八尾市柏村の南部に田畑が広がり、近鉄大阪線河内山本駅
付近が商業地となっている以外はおおむね閑静な住宅街となっている。また、二俣付近と
柏村橋付近 - 五月橋交差点、山本橋 - 山本町北七丁目付近までの両岸に桜の木が植え
られている。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生
を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていった
ものである。例年、年3月下旬~4月初旬にかけて桜が満開となる。この桜並木は、「大阪
みどりの百選」にも選ばれている。
ミーヤキャット石造
此処で玉串川を渡り、御野縣主神社へ向う
御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)・・・喪中中の私は外で待機
御野縣主神社は、大阪府八尾市にある神社。式内小社で、旧社格は村社。
旧河内国河内郡上之島村(八尾市上之島地区)の氏神。かつてこの地一帯を支配して
いた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神である。創建の年代は不詳で
あるが、延喜式神名帳に河内国若江郡の御野縣主神社二座と記載されていることから
平安時代以前にはあったとされる。明治5年(1872年)に村社に列せられた。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧大和川)の堤
防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。八尾市の保全樹林に指定
され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
玉串川に戻り、山本交番前へ渡り、左折して第二寝屋川へ向かう
途中の公園でトイレ休憩、
元々恩智川に架っていた石橋(福栄橋)がトイレ横に移築されている
※福栄橋
この石橋は福栄橋とよばれ、大坂の玉造から若江、福万寺をへて大和の竜田を結ぶ
十三街道の恩智川を渡るために架かっていました。かって、この橋があった西側には
寛政12年(1800)に福万寺の人々が建てた橋の供養碑が残されています。 碑には、
大雨による洪水で橋が流失したので、新しく再建したことが記されています。 橋に感
謝して建てられた供養碑としては市内で唯一のものです。 ここに保存されている石
橋は、明治9年4月(1876)に造られたものですが、昭和48年(1973)の恩智川改修
工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高欄部分が残されています。
第二寝屋川沿い
山口重信碑(八尾市幸町)
元和元年(1615)の大坂夏の陣にこの場所で、木村重成の槍に突かれて戦死した
徳川方武将山口重信の碑。三十三回忌にあたり、弟弘隆が建碑したもので、珍し
い亀趺(きふ)の上に建てられ、碑は西面し表に林 羅山の撰文が刻まれているが、
残念ながら破損が激しい。
木村重成墓(八尾市幸町)
元和元年(1615)6月5日早暁、大坂城から若江に進んだ木村重成は、大坂夏の陣
激戦の後この地で戦死し、遺骸はここに葬られて塚がつくられた。宝暦十四年(1764)
重成百五十回忌にその菩提を弔うために墓碑が建立された。墓石を削って飲むと、
勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸くなっている。また
墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮気に効があると
伝えられる。
八尾市立埋蔵文化財調査センター
展示品見学&小休止後西郡天神社へ向う
西郡天神社(にしこおりてんじんじゃ)・・・私は喪中中の外で待機
西郡天神社境内の手水鉢は、錦織廃寺の塔心礎である。この地は錦織連の居住地
でその寺院と伝え、八間堂の字名がある。鎌倉時代の石灯籠の台座が出土した。塔
心礎は高さ60センチ、縦120センチ、横160センチの自然石の中央に、直径67セン
チ、深さ37センチの柱穴があり、なおその中央に直径21センチ、深さ18センチの舎
利孔がある。白鳳時代に属する。
※錦織廃寺
かっての寺領は広大で 北は恩智川まで(300m)有ったとゆうまた本堂、金堂、三重の
塔などを持つ大寺院であった。 錦織連は百済より渡来した織物技術者である。
高塚地蔵 萱振一号墳石碑
※高塚地蔵
市内では第二に古い石仏である。大阪夏の陣のとき、若江合戦で大阪方の吉田内匠が、
この地蔵堂の陰から槍をもってとび出し、東軍の藤堂式部をおそったが、かえって討死し
たという。またこの地からは、古墳時代前期の方形墳が発見されている
※萱振一号墳
河内で発掘された方墳では最大級で大阪府立八尾北高校敷地内にある。物部氏
一族の古墳でないかと考えられている。
恵光寺(えこうじ)
恵光寺は、大阪府八尾市にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。通称「萱振御坊」。
河内国布教途上の蓮如によって建立されたと言われ、蓮如の6男である蓮淳を開基とす
る。建立年ははっきりせず、1470年(文明2年)、1469年〜1489年(文明年間)、1496年
(明応5年)の3説がある(公には1470年を一応の建立年としている)。
戦国時代になると、若江郡萱振は恵光寺を中心とした寺内町の様相を呈するようになり、
環濠もめぐらされた。環濠の一部は現在も残っている。
1574年(天正2年)6月に石山合戦が起こると、萱振の一向衆徒(門徒)は石山本願寺方
に加勢。恵光寺に近接して萱振城とも呼ばれる城砦があった萱振は、河内国における本
願寺勢の拠点となった。1580年(天正8年)8月の石山本願寺陥落とほぼ同時期に恵光
寺は放火・破壊された。
本願寺東西分派に際して西派(本願寺派)に属した。しかし、1685年(貞享2年)に当時の
住職だった寂永は、前住職の准良と共に東派(大谷派)に転じ、摂津国住吉郡平野郷へ
移った(現在の大阪市平野区平野上町にある大徳山慧光寺)。以降、1880年(明治13年)
までの約200年間、恵光寺は無住寺院となる。明治時代末期ごろには別格寺として、また
100以上の末寺を擁していた。
楠根川緑地公園で昼食
近鉄八尾駅へ向かう
天王寺駅へ戻り
湯処・あべの橋で汗を流して居酒屋・甘太郎へ向かう
甘太郎でN田さんご夫婦と会う、次回以降の飲み会をたのしみに・・・
飲み会終了後、二次回は3名でカラオケへ
おまけ?
7月19日の馬見丘陵公園
我家の琉球朝顔