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7月11日の赤膚山から三条通り&平城宮跡へー2

7月13日         7月11日の赤膚山から三条通り&平城宮跡へー2
                   近鉄てくてくマップ伊本③をアレンジ
此の日は、7月び入って2回目、久し振りのハイキングに二人で参加、暑い暑い1日でした。
コース 近鉄てくてくマップ伊本③赤膚山から朱雀門広場(ショートカット 8㎞)
富雄駅~葛上(ふじかみ)神社~霊山寺~垂仁天皇陵~朱雀門広場~バス~JR奈良駅
暑い暑い日で水分補給に2L、此の日の私の万歩計は、25833歩で約19.1km歩いた・・・
近鉄生駒線王寺駅
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生駒駅~富雄駅(受付・スタート)
富雄駅で知人と合流して富雄川沿いを下流へ向かって霊山寺(りょうせんじ)へ向かう
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下流へ向かって長澤橋、四天王寺橋、水声橋、上鳥見橋(富雄駅~993m)、黒谷橋、近大橋、
親の木橋、藤宮橋(富雄駅~2400m)、霊山寺橋、下鳥見橋を渡り砂茶屋バス停(富雄駅~
3700m)

10時35分に葛上神社(くずがみじんじゃ)前で水分補給
富男駅~藤宮橋、此処まで約2400m・・・喪中の為、神社参拝は控えている
葛上神社
本神社は、建速須佐命を主神として奉斎し、相殿の神は大山咋神、天照大神、三筒男命
なり。当社の伝記は散逸、或いは火災に罹り知るに由なしとも、鎮座多くの歳月の経て奈
良朝の頃には存在したるものの如し。大和添上郡鳥見谷一円を代々領有せし、小野の国
麿の時桓武延暦十三年山城遷都となり、これに伴い丹州山国の庄に御料木切出職を帯
び、その地に移り代々居住するにおよび本殿、和州の領地より本社も亦移されたものなり。
その後、この旧跡に再び神社を造営したるものとして、境内の一隅にある「葛上郷社古跡」
と記せる石碑あり、その錆より見て正に数百年前なることは想像に難からず。亦相殿の杣
川神社は平城宮造営のため当地杣木谷に渡来した氏神として同地に大山咋神を祭ったも
のであるが後、本所に移し合祀(年代不詳)したものである。
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10時40分に霊山寺門前に到着
バラの時期は終わったが入山券(500円)購入して・・・
霊山寺(りょうせんじ)へ入山
霊山寺は奈良市中町にある霊山寺真言宗大本山の寺院。山号は登美山(とみさん)又は
鼻高山(びこうさん)、開基(創立者)は行基と菩提僊那、本尊は薬師如来である。寺名の
読みは「りょうせんじ」が正式であるが、「りょうぜんじ」「れいざんじ」と呼ばれることもあり、
地元ではいずれの呼称でも通じる。
奈良市の西郊・富雄川沿いにあり、戦乱に巻き込まれずに古い面影を残す。バラ園があり、
世界のバラの花を集めていることで有名である。
奈良市の西郊、富雄地区にあり、富雄川の支流湯屋川をはさんで南北両側の丘陵上に鎌
倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。これら古建築とともに、全面
金箔貼りの黄金殿、バラ園、温泉、ゴルフ練習場、大霊園などの設備を有する異色の寺院
である。
伝承によれば、小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大
臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人
(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、
病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けた。これは、彼が熊野本宮大社に参篭した際に
出現した薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)のお告げにしたがったものであった。
神亀5年(728年)のこと、聖武天皇の皇女(のちの孝謙天皇)は、病に苦しんでいた。ある晩、
天皇の夢枕に鼻高仙人が現われ、登美山の薬師如来の霊験を説いたので、僧・行基を登
美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒した。天平6年(734年)、聖武天皇は
行基に命じて霊山寺を建立させた。2年後の天平8年(736年)に来日したインド僧・菩提僊那
(東大寺大仏の開眼供養の導師を務めた)は、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょう
じゅせん)に似ていることから霊山寺と名付け、聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の額を賜った
という。
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10時44分
蓮の花がチラホラ咲いて綺麗だった
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バラ園
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10時50分に八体仏霊場へ到着
八体仏霊場
十二支と星座を組み合せ、生まれ年・干支、生まれ日・星座のお守り本尊霊場として、原型
制作より5年をかけ1991年(平成3年)に完成した。
向って左より、阿弥陀如来、不動明王、大日如来、普賢菩薩、勢至菩薩、文殊菩薩、虚空
蔵菩薩、千手観音菩薩を安置する。
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私の守り本尊は、阿弥陀如来だ
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本堂へ向かう
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10時59分に本堂の前に到着
本堂へ入れて貰った、本堂の扇風機の風が涼しかった・・・
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本堂を出て奥之院へ続く鳥居の前迄行きUターン
奥之院
本堂より、約1Kmの山道を登ったところにある霊山寺奥之院。弘法大師が留錫の時大龍神
の霊験を感得し、大龍神を弁財天として奥之院へ勧請したと伝わる。
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三重搭のある丘へ登る
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此処までは、
7月11日の赤膚山から三条通り&平城宮跡へー1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-07-13
此処では、続きの11時14分に着いた 三重搭からの詳細を掲載します。
三重搭(国重文)
鎌倉期の純和様式で、1283~84年(弘安2~3年)頃に建立された。
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出口へ向かう
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11時26分に霊山寺を出発
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11時55分~12時10分 公園で昼食
12時25分に赤膚山窯元前に到着
かつて都から、平城京の西方に赤茶けた山が望めたという。色の正体は鉄分を含んだ
上質の赤土、つまりやきものに適した粘土である。朱は魔除けにつながる聖なる色。沈
む夕日のなか、赤い山肌はさらに燃えるように際立ち、神々しかったことだろう。
その山の名は五条山といった。しかし浮き出た色ゆえに、赤膚焼の名の由来ともされる
「赤膚山」と通称されることになる。
西ノ京丘陵に位置する五条山の土で産出されたやきものの原点は古く、神々に供え物
をする須恵器にはじまるとされる。『日本書紀』には、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛(ひば
すひめ)命が亡くなった際に殉死を防ぐため、土師氏の祖先・野見宿禰が“人の形を模
した土物=埴輪”を作って陵墓に立てた話がみえ、こうした伝承が引き合いにだされる
ことも多い。
赤膚焼として確立するのは桃山時代。郡山藩(奈良県大和郡山市)の城主となった豊
臣秀吉の弟・秀長により、この五条山に窯が開かれてのことだ。
土の採取が容易いこと。同地が窯場に選ばれたのはそれ故だろうと思いがちだが、理
由は以外にも“赤松が豊富にあったから”だという。
松脂を含む赤松は火がつきやすく、火力が強い。そこで陶芸に最適な燃料として重宝さ
れるのだが、松脂を多量に蓄えた良い松は非常に重い。しかも大量に必要だ。つまり
運搬の手間を考慮すれば、「赤松の森の近くに窯を設けるのが一番効率がいい」という
ことになるそうだ。
五条山には土も赤松もそろっていた。今もこの周辺には赤膚焼の窯元が4軒ある。所縁
の大和郡山市内には2軒を数える。
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垂仁天皇陵へ向かう
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13時7分に垂仁天皇陵に到着
垂仁天皇陵
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市
尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみの
ひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
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※垂仁天皇
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11
代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。
伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴輪など著名な神事の起源もこ
の天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・
活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちの
みこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、
『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古
事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説
もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い。
崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、御
間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后と
した。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿原
市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋
納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)
を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたとい
うのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業
を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命
に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求め
させる。同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日
本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。

13時56分に平城宮跡・朱雀門前広場に到着 いざない館で水分補給休憩
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14時42分に 遣唐使船展示場へ到着
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14時50分に平城宮跡を出発
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15時17分に三条通りへ出てバスに乗る
知人(近鉄奈良駅へ向かう)とバスで別れてJR奈良駅で下車
15時31分初の大和路線快速電車に乗り王寺駅へ、王寺駅~バス
16時13分迄バスが無い、16時のバスにのり、片岡台3丁目~徒歩で自宅へ向う
16時24分に自宅近くの高速道路裏道で・・・
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16時30分に自宅へ戻りシャワーを浴びる

おまけ
7月12日朝の我が家の琉球朝顔、
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