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4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-2

4月22日     4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-2
        6月度歩こう会のコース下見 10km
此の日は、6月度歩こう会のコース(8km)下見に5名でおまけも入れて10km歩いた。
コース   てくてくマップ奈良② 歴史の道ウワナベ古墳~秋篠寺コース
新大宮駅(10時)~芸亭伝承地~ウワナベ古墳~航空自衛隊奈良基地~コナベ古墳
~磐之媛命陵~水上池~平城宮跡遺構展示館(昼食)~平城天皇陵~佐紀神社~隆
光大僧正墓石~佐紀神社~釣殿神社~八幡神社~日葉酢媛命陵~成務天皇陵~福
松大神~八幡神社~神功皇后陵~秋篠寺~八所御霊神社~大和西大寺駅(ゴール)
6月度歩こう会には新大宮駅~佐紀縦列古墳群めぐり~平城駅(8km)コースを予定。
此の日は、おまけの秋篠寺~八所御霊神社~大和西大寺駅迄10kmを歩いたので私
の万歩計は、25763歩で約19km歩いたことに・・・
新大宮駅~佐保川を渡り
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芸亭(うんてい)伝承地
「芸亭」(うんてい)とは,日本で最初の公開図書館とされている施設。
8世紀末,奈良時代後期に 有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が 平
城京(現・奈良市)に設置した。芸亭院(うんていいん)とも呼ばれる。
石上宅嗣は大納言の地位にまで昇る一方で,知識人であり 熱心な仏教信者でもあった。
自分の邸宅を阿閤寺として改築した際に,敷地の一部に古今の書籍を収蔵し 希望者に
閲覧を許したのが芸亭の始まりとされている。
奈良時代,個人で蔵書を集める風潮が芽生え「公家文庫」と呼ばれる蔵書が出現した。
芸亭は 公家文庫のうちでも最も古いものの一つである。
芸亭以前にも 8世紀の初めごろ,国家の蔵書を管理する組織“図書寮(ずしょりょう)”が
中務省(現在の宮内庁に相当)開設されているが,ここは役所内の施設であり, 一般公
開はされていなかった。
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ウワナベ古墳
ウワナベ古墳・コナベ古墳
周囲に壕をめぐらせた巨大な前方後円墳で、いずれも松の緑におおわれています。
東側が全長255mのウワナベ、ひと回り小さな西側がコナベで全長204m。コナベ古
墳のまわりには副葬品などを納めたとみられる方墳や円墳もあり、日本古墳時代中
期(5世紀)を代表する古墳です。
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自衛隊奈良基地
奈良基地(ならきち)とは、航空自衛隊幹部候補生学校が配置されている航空自衛隊
の基地である。奈良県内では唯一の自衛隊施設である(自衛隊奈良地方協力本部を
除く)。基地司令は、幹部候補生学校長が兼務。
航空機を運用する航空団や飛行隊などは配備されていない。よって滑走路も有してい
ないが連絡機用として基地グラウンド内に回転翼機が発着するスペースがあり化学消
防車も配備されている。基地内にはF-1戦闘機を始めとする航空自衛隊で使用された
航空機が野外展示されている。
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コナベ古墳
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磐之媛命陵
磐之媛命(いわのひめのみこと)
仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘
で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇
の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉
仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年(34
2年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。
磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現
在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。
妬み深い人物として知られる。その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇
は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。
ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということ・・・・
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水上池
平城宮跡にも近い野鳥の楽園は平城遷都前に設けられた「ため池」
水上池(みずかみいけ・みずがみいけ)は、平城宮跡北側の第一次大極殿や遺構展
示館等があるエリアからほど近い、佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)周辺にある奈
良市最大級の大規模なため池です。
天理市との境に位置する「白川溜池」のような護岸で固められた人工的な池を除いて
は、奈良市内で最も広大な池であり、かつ最も古い池の一つであるとされる水上池は、
『日本書紀』の垂仁天皇記において「倭の狭城池及び速見池をつくる」と記される中の
「狭城池」にあたると考えられ、その歴史は1300年前の「平城京遷都」をもはるかに
遡るものであるとも言われています。
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平城宮跡遺構展示館へ向かう
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平城宮跡遺構展示館・・・近くの広場で(昼食)
大和西大寺駅と新大宮駅の間に拡がる広大な緑の空間が、奈良時代に天皇の住まい
や官公庁が集まっていた平城宮跡です。 「平城宮跡資料館」では出土遺物や復元模
型の展示、「遺構展示館」では発掘状況をそのまま保存。復元された壮大な「朱雀門」、
奈良時代の庭園のようすがしのばれる「東院庭園」も復元されております。 また、平
城遷都1300年となる2010年には、宮跡の中核施設である第一次大極殿正殿も復元
されました。
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平城天皇陵
51代平城天皇(へいぜいてんのう)。父は桓武天皇、母は皇后天之高藤廣宗照姫之尊
御 陵 名は楊梅陵 (やまもものみささぎ) 、円丘
809年、平城天皇は病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位し、平安京を出て平城京に移り
住んだ。翌810年、健康を取り戻した平城上皇は藤原仲成・薬子兄妹らに担ぎ上げられ
て重祚(再び皇位につくこと)を企て、「都を平安京から平城京へ移す」と詔を出した。
このため平安京に住んでいた嵯峨天皇と対立し、平城上皇は挙兵のため東へ向かった。
しかし嵯峨天皇は先手を打って坂上田村麻呂を東に派遣しており、藤原仲成は処刑さ
れた。藤原薬子は服毒自殺し、平城上皇は出家した。 これを『薬子の変』と言う。
不退寺は『薬子の変』で敗れた平城天皇が出家後に住んだ『萱の御所』があった場所だ
と伝わっている。不退寺の西2kmほどのところに、市庭古墳があり平城天皇陵に比定さ
れている。市庭古墳は5世紀につくられた古墳だと考えられる。平城天皇は平安時代の
人物なので、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇陵は5世紀の古墳
を流用して葬られたとする説がある。
1962-63年、市庭古墳の発掘調査を行ったところ、市庭古墳は円墳だと考えられていた
のだが、前方部が壊されていた跡が見つかり、市庭古墳は前方後円墳だった。前方部は
南向きで平城京築造の障害になったため、前方部が取り壊されたものと考えられている。
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佐紀神社(亀畑)へ向かう
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隆光大僧正墓石
隆光大僧正は1649年(慶安2年)大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、
長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代
将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。元禄年間、通法
寺再興の時、多田義直の上表の際に、柳沢吉保と共に尽力している。また、桂昌院の
援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年 (永禄10年)松永久秀が焼き、142年
間雨ざらしの大仏殿再建に尽力しており、地元の河内や大和では評判は良い。
悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は彼の発案だとされている。そのため、
綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷されている。
最晩年の10数年は生まれ故郷に帰り、超昇寺で遇し、1724年(享保9年)に没してい
る。元超昇寺の本墓ともに、通法寺跡にも分骨墓が有る。
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※超昇寺(ちょうしょうじ)
平城天皇の皇子高丘(たかおか)親王(出家して法名を真如(しんによ)という)が、
835年(承和2)楊梅(やまもも)宮の跡地をたまわって創建した。10世紀の末、興
福寺の清海がこの寺に住み,7日間の大念仏(超昇寺大念仏)を始め、極楽浄土
の曼荼羅をえがいた。これを〈清海曼荼羅〉といい、日本の浄土三曼荼羅の一つ
に数えられている。中世の戦乱により衰退し、江戸初期にはわずかに堂1宇を残
すのみとなり、隆光が復興につとめたがついに廃絶した。
※通法寺
羽曳野市壺井は河内源氏発祥の地として知られているが、この壷井通法寺は、長
久4年(1043年)に、河内国司であった源頼信の子源頼義が猟の際に千手観音の
霊像を得て、これを本尊にして創立した寺院と伝えられている。前九年の役の時、
頼義が子の八幡太郎義家とともに奥州へ出陣。凱旋ののち、「香呂峰の地」と呼ば
れた同地に八幡宮を祀ったが、これが西北に隣接する壷井八幡宮の起りとなった。
頼義は浄土宗に帰依し阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり
源氏の隆盛と共に栄えた。
南北朝時代に戦火により焼失。江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将
軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となり再興する。
※通法寺跡に大僧正隆光の墓も有る
隆光は、徳川五代将軍綱吉の学僧。「生類憐れみの令」を公布させた僧として知ら
れ、綱吉死後は左遷され通法寺の住職を勤めていたのだという。

佐紀神社(亀畑)
御祭神は天児屋根命 経津主命 六御県命
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の東にある。御前池の西にも同名
の神社があり、同じく式内論社になっている。
社伝によると、天武天皇二年(673)の創祀。超昇寺の建立と同時に、鎮守社として祀
られたという。 式内社・佐紀神社に比定されている古社。鳥居扁額に「式内佐紀神社」
と刻まれている。
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御前池(おまえいけ)
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此処までは、
4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-22
此処では此の続きの、佐紀神社(西畑)~
佐紀神社(西畑)
御祭神は天児屋根命 経津主命 六御県命
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の西にある。御前池の東にも
同名の神社があり、同じく式内論社になっている。
東の佐紀神社と違い、ここには式内の石碑がある。でも、規模や雰囲気は同じ。
参道は、こっちの方が明るい、気がする。 当社の東には、「釣殿神社」がある。
由緒は不詳。境内の石碑にある通り、式内社・佐紀神社の論社となっているが
亀畑の佐紀神社からの分神だとも言われている。
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釣殿神社
創建は平安時代頃、式内佐紀神社(奈良市佐紀町字亀畑)の末社・市杵島姫神社と
して、創建されました。当時の御祭神は市杵島姫命。室町時代、戦国時代と、戦火
に遭い消失。江戸時代初頭に、市杵島姫神社が再建とともに、佐紀神社の祭神の
六御県命、経津主命の2神を「釣殿神」として合祀し、天児屋根命をも合祀。市杵島
姫命と合わせ、3柱を祭神としています。
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八幡神社・・・山上八幡神社
創建は、江戸時代に入ってからの延宝5年(1677年)とも言われていますが、その
詳しい由来については不詳。しかし神社の周辺には中世に反映した寺院である「超
昇寺」、またその周辺を戦国時代にかけて陣地とした藤原鎌足の末裔とも言われる
超昇寺氏の城郭があったことで知られており、超昇寺氏の信仰を受けていた神社と
しても知られています。
また境内の北側、社殿左後方にそびえる杉の木は、神社の創建時期とは前後する
が、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際してその成功を祈り手植えした
由緒ある神木であるとされているほか、拝殿には合戦の様子を鮮やかに描いた大き
な絵馬が奉納されている事でも知られています。なお、山上八幡神社の祭神は天照
皇大神(あまてらすすめおおかみ)・八幡大明神(やはたのだいみょうじん)・春日大
明神(かすがのだいみょうじん)となっています。
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日葉酢媛命陵
全長207メートルの前方後円墳。日葉酸媛は垂仁天皇の后で、「古事記」には、
日葉酸媛が亡くなった時、その葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪
習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰(のみのすくね)が生
きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や
馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。
埴輪をつくるようになったとする埴輪の起源説話が残されています。
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成務天皇陵
日葉酸媛陵の西に隣接する全長219メートルの美しい前方後円墳。大規模な前方
後円墳が、これほど接してつくられた例は、全国的にも非常にめずらしいそうです。
成務天皇(せいむてんのう)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇。
日本全国の数多くの国造を任命したと伝わる。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひ
このみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。日本書紀
では国造や稲城の設置、国郡の境を定めたとされている。
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神功皇后陵古墳へ向かう
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福松大神
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八幡神社・・・山稜八幡神社
「神功皇后陵」と隣り合わせになっており、この神功皇后陵と深い関係を持つ神社
としても知られています。
祭神は主祭神は神功皇后本人である「気長足媛命」、そしてそれ以外には「品陀和
気命(応仁天皇)」、そして神功皇后の母親である「玉依媛命(タマヨリ)」が祀られて
おり、一般的な「八幡神社」は応仁天皇が最も重要な主祭神となっていることが多い
中で神功皇后ゆかりの神社らしく神功皇后が第一にお祀りされている状況となって
います。なお、この神社では神功皇后は「武運」と「安産」の神、応仁天皇は「厄除開
運の神」、そして玉依媛命は「育児の神」とされており、特に女性にはご利益があり
そうな神社となっています。
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神功皇后陵古墳
佐紀古墳群の北西地域にある、4世紀末~5世紀初めの古墳で全長275メートル。
佐紀盾列古墳群の中では最も大きい古墳です。
神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(お
きながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみ
こと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・
息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、
この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死
(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住
吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界
灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本と
いう神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝
貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすこ
とによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱
岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉
納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目
を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九
州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
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ここからはおまけ
秋篠寺(あきしのでら)へ向かう
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秋篠寺
奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と
伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれ
ています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今
の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林に
なってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが
伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、
またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
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八所御霊神社
由緒沿革は定かでないが、崇道天皇以下御霊八所(火雷大神、崇道天皇、伊豫
親王、藤原廣嗣、文室(ふんや)宮田麻呂、橘逸勢、吉備大臣、藤原夫人)を祭神
とし、秋篠寺の鎮守社であった。
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大和西大寺駅
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