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3月27日の淀の城下町から京街道を歩く-2

4月2日       3月27日の淀の城下町から京街道を歩く-2
                 3月度 歩こう会 歩程約7㎞
最高のハイキング日和、最高の桜開花時期に背割り堤の桜を見る事が出来た。
此の日の参加者は87名、私の万歩計は、17881歩で約13.2km歩いたことに・・・
飛行神社参拝後に石清水八幡宮鳥居前の走井餅屋で知人と4名でお茶して
コース  鶏飯淀駅に10時半(受付・集合) 
京阪淀駅(受付)~淀城(跡)・與杼神社~淀緑地(河津桜)~淀川河川公園~背
割り堤(昼食)さくらであい館&展望台~飛行神社~京阪八幡市駅(解散)
京橋駅で京阪電車に乗り換えて
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淀駅到着~スタート
淀駅前の水車
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與杼神社(よどじんじゃ)&淀城跡へ向かう
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與杼神社(よどじんじゃ)
與杼神社は、京都市伏見区淀にある神社。祭神は、豊玉姫命、高皇産霊神、速秋
津姫命の三柱。
愛宕念仏寺などを再興した千観内供が応和年間(961年-964年)頃に肥前国(現在
の佐賀県)佐賀郡河上村の與止日女神社より淀大明神を勧請して建立。
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淀城跡
戦国期の城は現城跡より北の納所に築城。のち豊臣秀吉が淀君の産所として修築
したが伏見城の築城で廃城。その後、1623年(元和9)松平定綱が現位置に築く。
明治維新後破却。本丸石垣・内濠の一部が残り往時の名残をとどめている。
淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都
に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地であった。また、河内国・摂津国
方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった。
淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京都市伏見区の京阪電気鉄道
淀駅の南西に位置する。安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせ
た淀城は現在の位置より北へ約500メートルの位置にあった。こちらは、鶴松死後に
拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった
木村重茲の連座とともに廃城とされた。
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淀緑地・・・京都で一番早く花見が出来る場所?だとか
伏見区の南西に位置する淀。かつて桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、
大阪平野へつながる水陸交通の要衝でした。平安時代には「与度津」を呼ばれ都
の外港となり、戦国時代にかけては城が築かれ、城下町として発展しました。淀は
各時代で重要な役割を果たし、歴史を刻みながら変遷を続けてきたのです。
近年は京都競馬場のある場所として、多くの人を集めてきましたが、1999年に着
工した京阪電鉄本線淀駅の高架化と周辺整備をきっかけに、淀の特色を生かした
新しい町づくりを目指した取り組みが進められています。淀水路を中心に河津桜を
植樹する試みも、その一つです。
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淀川河川公園へ向かう
田圃のあぜ道を、足元にレンゲ、土筆、タンポポ等春の花々・・・
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此処までは、
3月27日の淀の城下町から京街道を歩く-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-02
続きは、未だ未だ続く淀川河川公園へ向かう~
スギナと土筆
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淀川河川公園(よどがわかせんこうえん)
淀川河川公園は、大阪府と京都府を流れる淀川の河川敷にある国営公園です。
6市・2町をまたぐ大規模な公園ですが、その中でも京都府八幡市にある背割堤
(せわりてい)は、景観全保全地区に指定されていて、その堤防沿いの桜が美し
いと評判です。
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展望台・・・さくらであい館
三川合流の地に、出会いの場がある。 木津川、宇治川、桂川が出会う三川合流
地点にほど近い桜の名所、背割堤に平成29年春、地域の新しいランドマークが
完成しました。 三川合流エリアの地域間交流や地域振興、観光周遊の拠点として
人・物・情報が出会う、活気あふれるスペースをめざして活動しています。
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背割り堤(昼食)
背割堤は宇治川(淀川)と木津川の合流部にある堤防で、全長約1.4Km。非常に
広々とした堤防沿いは、お花見をするには抜群のロケーションです。
背割堤(せわりてい)は、京都府八幡市にある堤防である。宇治川(淀川)と木津川
の合流部に全長1.4kmにわたって2つの河川を区切るように設置されている。洪水
発生時に両河川をスムーズかつ安全に合流させる役割を果たしている。
淀川河川公園の景観保全地区に指定され、ソメイヨシノが約250本植えられている
ため、毎年4月には花見客でにぎわっている。
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※桜の背割り堤・・・昭和63年4月より桜並木の一般開放を開始した。
明治時代まで木津川は淀(京都市伏見区)付近で宇治川に合流していた。1800年
代後半には明治大洪水をはじめとして、淀川で多数の水害が発生した。そのため、
木津川と宇治川の合流部を現在の三川合流部に付け替える淀川改良工事が行わ
れ、1910年に現在の流路となった。更に1917年の大正大洪水の被害を受けて河
川改修が行われ、現在の背割堤が建設された。
1970年代までは堤防にマツが植えられていたが、虫害のためソメイヨシノに植え替
えて現在に至っている。昭和63年(1988年)4月より桜並木の一般開放を開始した。

昼食を終えて展望台から
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背割り堤の入口に集合
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飛行神社へ向う
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飛行神社・・・飛行神社HPより
このサイトは我が国で最初に固定翼の理論、飛行原理を発見した愛媛県八幡浜市
出身の二宮忠八翁が大正4年(1915)京都府八幡の自邸内に創建した飛行神社の
公式ホームページです。
航空殉難者・物故先覚者の御霊の安穏を祈り、空の安全、航空業界の益々の発展
を願う神社です。
平成27年(2015)に創建100年、同28年(2016)には二宮忠八翁生誕150年の
記念の年を迎えました。
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※飛行神社の祭神
中央:饒速日命 右:航空殉難者の霊・航空業功績者  左:薬祖神・金毘羅・白龍神
饒速日命は神話において天磐船にのって地上に降臨したとされることから、空の神・
飛行機の神(天磐船:アメノイワフネ=飛行機と解釈)として結び付けられ、飛行神社
の祭神に選ばれた。大阪府交野市の磐船神社より勧請したものである。
右の社殿には航空業界に業績を残したものの霊と、世界中の全ての航空事故の犠牲
者の霊を祀る。日本国内の航空事故犠牲者については表名(一人一人の名前を挙げ
て)合祀を行い、国外の犠牲者については無表名で(個人を特定しないで)合祀する。
左の社殿には、薬業の祖神とする武田長兵衛と金毘羅神と地主神である白龍神を祀っ
ている。薬祖神は二宮忠八が製薬会社に勤めていたことによるもので、金毘羅は忠八
が讃岐の金刀比羅宮(船の神、飛行機に通じる)を信仰していたことによる。白龍神は
境内に出現した白蛇を地主神として祀ったものである。

京阪八幡市駅(解散)~京橋駅
京橋駅~鶴橋駅構内で澳門安徳魯餅店(マカオ アンドリューモチテン)の
お気に入りの?エッグタルト&シナモンアップルを買う
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3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-2

4月2日     3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-2
     近鉄てくてマップ大阪⑬河内国分駅~
此の日は、K場さんS籐さんM吉さんと田原の4名で思ってたよりも登り坂を歩く羽目に。
コース   河内国分駅集合10時スタート  歩程約10km
近鉄てくてマップ大阪⑬柏原・八尾史跡巡り 河内国分駅でスタンプ~高安駅迄
河内国分駅(スタンプ)~高井田~歴史の丘展望台公園~鐸比古鐸比賣神社~恩地城
跡~安養寺~権現社~高安駅 ⇒鶴橋駅 ⇒天王寺駅  湯処・あべの橋 
昼飲み会に参加メンバーと待ち合わせ6名で居酒屋へ 14:50 551蓬莱前 ⇒甘太郎
此の日の私の万歩計は、25214歩で約18.6km歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
香芝駅
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鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神
(か しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝
(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨
城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村
人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)
があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特
の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさ
ん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもん
じょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で
保管されている。
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下田駅~河内国分駅
河内国分駅でスタンプ貰ってスタート
国豊橋を渡る
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宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
大阪府柏原市にある式内社で、地元では通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ば
れ、地図や看板でもそのように表記されている。
宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。『神社覈録』や『特選神名牒』
では「祭神不詳」となっている。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田89)とともに、
当地を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社
となっており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に
列している。中世には「白坂大明神」と称していた。
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高井田横穴公園
JR高井田駅の北側にある国の史跡・高井田横穴群を保存・公開する公園。高井田横
穴は、凝灰岩の岩盤に洞窟を掘って築造された古代の墓で、6世紀中頃から7世紀前
半にかけて造られ、総数は200基以上にのぼると考えられている。大正時代、洞窟の
壁に人・鳥・馬などを刻んだ線刻壁画が発見され、一躍有名に。また近年では、平成
元年から始まった公園整備の調査中、高井田山古墳が発見され、古代のアイロン
「火熨斗(ひのし)」や鏡、冑、甲などが出土。この古墳は、5世紀の終わり頃に造られ
たと推定されている。公園の遊歩道に沿って歩くと、横穴や透明の屋根をかけた高井
田山古墳、出土品のレプリカが見学できる。園内には市立歴史資料館もある。
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高井田山古墳
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歴史資料館
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観音寺へ向かう
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あけび?&大葉草藤?
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観音寺
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたとい
う。智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や
孝謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、
当時としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願
の契機となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再
建されることはなかった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが
奈良・平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえる
だけに貴重な物といえる。
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鐸比古鐸比賣神社へ向う
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鐸比古鐸比賣神社
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:
278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151
年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂
仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり
、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
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此処までは、
3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-01-2
続きは、恩地城へ向かう~
若倭彦神社へ向う
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若倭彦神社
柏原市平野地区の産土神で式内社です。
創建年代は不詳のようですが、6世紀頃この地で勢力を持っていた若倭部ノ連が、祖神
である若倭彦命を祀ったのが創始の様です。若倭姫神社も同様だそうです。
別名を「あかざ八幡」と言います。
古記録には「貞観2年(859)従五位下を授く」「延喜の制に小社に列せられ祈年祭並に鍬
一口を奉る」とあります。
若倭姫神社とともに、明治41年に鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、戦後独立し
現在地に復座しました。現社地は極狭い境内地となっていますが、昔は、境内も広大で
老松が境内の周囲を天を摩するごとく覆っていたようです。それが明治維新後に現在の
ように小さくなったと伝えられています。
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瑠璃光禅寺へ向かう
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瑠璃光禅寺(るりこうじ)
瑠璃光寺は、大阪府柏原市山ノ井町にある仏教寺院。曹洞宗永平寺の末寺で山号は
「医王山」。 正式には「医王山 薬師院 瑠璃光禅寺」と称する。
天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍
を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際
に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規模にはならず、
境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂がある
のみとなっている。
本堂には本尊とともに、焼けただれた四体の四天王像が安置されている。一木添木式の
木像で、いずれも両腕と持仏が焼失しているものの高さは1mほどあり、平安時代の作。
境内奥に「日露戦勝記念碑」および「高田川音吉碑」がある。高田川は山ノ井出身で、碑
は昭和4年(1929年)に建立された。 境内南には式内社である若倭姫命神社がある。
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若倭姫神社
創建は不詳ですが、「若倭彦神社」同様、6世紀頃この地で勢力を持っていた、若倭部
連氏の祖神である若倭姫命を祀ったのが創始であろうといわれています。式内社で、
若倭姫命を御祭神としています。「式内社調査報告」では、若倭姫神社は中世、醫王山
薬師寺(瑠璃光寺)の鎮守社となったと記されているそうです。若倭彦神社同様、明治
41年鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、昭和22年元地に復座しました。本殿裏の
岩壁は磐座ではないかという説があるようです。
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山井寺
融通念仏宗 (ゆうずうねんぶつしゅう)
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八王子神社
式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録
によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常
世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっ
ていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。
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※常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)
常世岐姫神社は、燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉する神(常世岐姫神)を祀る神
社であり、日本全国に数社ある。大阪府八尾市神宮寺にある神社が本宮であるとされる。

シュミイ地蔵
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中
日に建立したものである。高さ136センチ、幅67センチ材質は花崗岩である。像の左右に次
の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門 
道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白
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恩地城址(おんぢじょうし)
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高
安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。堀の中にかつ
ては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布
のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
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安養寺へ向かう
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安養寺(あんようじ)
この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正10年
(1921)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水
紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、
この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその
拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。
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権現社(ごんげんしゃ)
権現社の沿革
神社明細書には「慶長年間(1596~1614)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。
寛政2年(1790)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。境内にある古い灯籠
南部にある一基は元禄13年(1700) 拝殿前の二基は宝暦2年(1752)
権現社(ごんげんしゃ)
黒谷地区の氏神で、熊野神社とも言う。熊野権現を祀る。明治5年に教興寺村の天照
大神高座神社に合祀されたが、今はもどる。信貴山へ登る古道(信貴道)が神社の南
側を通って山道となる。今は、この古道はほとんど消えている。丁石は寛政13年
(1801)のものが、寺池そばの三丁石から始まって四、六、七丁石と残っている。 
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※信貴道道標と丁石
旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南
西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標と
しては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、
いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本
の丁石が残っていて昔をしのばせる。
高安駅へ向かう
恩智川を渡る
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高安駅
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋へ
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居酒屋
甘太郎で昼飲み会
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