2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-2
3月2日 2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-2
昼飲み会ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と4人で最終ゴールは居酒屋での昼飲み会、途中で銭湯もあるが、恒例
の月に一度の昼飲み会ハイキングである、M吉さん・K場さん・Y田さんと田原の4人、
今回のコースは、
近鉄 てくてマップハイキング大阪⑭まっぷ 河内国分駅スタートでJR柏原駅迄
河内国分駅(スタート・捺印)~西町地蔵尊~奈良街道~松岳山古墳&国分神社~長尾
街道~田辺廃寺跡(春日神社)~初吉稲荷社~玉手山学園(立教館)~玉手山公園~片
山薬師堂・片山神社~大和川治水記念公園~JR柏原駅
JR柏原駅から天王寺駅へ、そこからキューズモール裏手の銭湯、湯処・あべの橋へ、銭湯
で汗を流して14:50にJR天王寺駅中央改札551蓬莱の前辺りで飲み会参加者と待合せ・・・
15:00~17:00 居酒屋で恒例の昼飲み会、気が付いたら4人で2次会のカラオケへ
此の日の私の万歩計は、26780歩で約19.8km歩いたことに・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社
鹿島神社は古来より『もりのみやさん』『おおぎのみやさん』の名で親しまれております。
当社の創建は、高倉天皇の承安二年(1172年)源氏の郎党・鎌田小次郎藤原政光(光
政)が、常陸国(茨城県)鹿島郡の鹿島神宮より御分霊を賜り、当地に勧請したと伝え
られています。
河内国分駅で待合せ~西町地蔵尊
奈良街道・長尾街道分岐
松岳山古墳&国分神社
松岳山古墳
松岳山古墳(国史跡)は墳丘長130mの前方後円墳です。板状の石を積み上げて築か
れた墳丘、大きな石を組み合わせた石棺とその前後に立つ孔の開いた立石、大きな
楕円筒埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、その西にある玉手山古墳群ととも
に、古くからたいへん注目を集めてきました。
現在松岳山古墳は、前方部の一部を除いて墳丘は良好に残っており、後円部には墳
頂に石棺が露出しており、見学することができます。(国分神社社務所の許可必要)
国分神社
国分神社 鎌倉時代の創建 大国主命 小彦名命 飛鳥大神を祀る。
境内裏山は松岡山古墳(古墳時代前期の前方後円墳)
長尾街道
長尾街道は紀州街道の堺戎之町を起点とする「日本書紀」の天武天皇元年(672年)
7月条の壬申の乱における戦いの記述中に見える「大津道」であるといわれる古道。
塩出山西法寺(浄土真宗本願寺派 西法寺)
大阪府柏原市に位置する西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代蓮如
上人の教化により浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
西法寺の西門に石碑が建っています。その石碑に西法寺の歴史が記されてあり、そ
の碑文を書き写したものが残っています。
今から約1400年前、聖徳太子が仏法を広めるため「塩出山 浄生院 放光寺」というお
寺を枯栖山(今の芝山らしい)のふもと、杜本神社の近くに建てられました。
初代の住職は「実言」という方でした。その後宝亀3年(772年)火災で、堂塔、門など
すべて焼失して僅かに礎石を残すだけとなったために、小さなお堂を建てて法灯を護
り続け、創建以来900年が経ち、第53代「実弘」の時代となりました。
当時の国分代官「安藤 善正」は実弘の弟であり、兄弟で本願寺第8代の「蓮如上人」
を慕い、そのみ教えを信奉して浄土真宗に帰依しました。それが文明8年(1476年)の
ことです。そこで、西法寺は「善正」を浄土真宗としての開基住職としています。
その後「蓮如上人」が当寺にお立ち寄りになり7日間御逗留され、浄土真宗のみ教え
をお説きになられました。「放光寺」が「西法寺」という名前(寺号といいます)に変わり
ましたのは、慶長12年(1607年)10月に本願寺第12代宗主准如上人より「西法寺」の
寺号を賜り公称するようになりました。第8代住職「善空」の時に現在の地に移転し。
田辺廃寺跡へ向かう
不道明王堂
田辺池
田辺廃寺跡(たなべはいじあと)
(春日神社境内)
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本貫地(ほんがんち:本拠地)とした百済系渡来氏
族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われています。1971 年の発掘調
査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であること
が判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、
西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てら
れていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土遺物も境内
の収蔵庫に展示されています。
此処までは、
2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-02
続きは、初吉稲荷社~
初吉稲荷社(おいなり古墳)
おいなり古墳遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいなり
古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬施設
は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認できて
いません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古墳が複
数存在した可能性が考えられています。
玉手山学園へ向かう
道路脇にアロエの花が咲いていた
玉手山学園キャンパス(立教館・藤蔭庵)
立教館は文政13年(1830年)、頼山陽(らいさんよう)に学んだ国分村の柘植常熙(つげ
じょうき:葛城)が郷土の子弟にも教育を受けさせようと、地 元の有志を募って建てた私
塾です。頼山陽も何度かここを訪れ講義を行いました。また、裏手を流れる大和川の眺
めを賞賛し、「河内嵐山」と評したとも伝えら れています。施設の老朽化と塾生の増加に
伴い、文久3年(1863年)から新たな学舎の建設にかかり、明治4年(1871年)に完成し、
国分村小学校立教館として開校しました。その後、立教館は昭和9年(1934年)まで国
分小学校の一部として使用されていました。現在は、玉手山学園の敷地内に移築されて
います。
藤蔭庵
原川コミュニティー道路
玉手山公園へ向かう
小松山古戦場跡碑
玉手山1号墳
公園(昼食)
片山廃寺跡
片山薬師堂
半田三吉 僧名 戒弘(カイコウ) 生没年 慶応貳年~昭和貳拾年(1866~1945)
奈良県吉野郡洞川大峰山龍泉寺住職 羯磨真弘(カツマシンコウ)師に師事。
戒弘氏所有の土地(大阪府南河内郡国分町片山百七十七番地)に私財を投入し
親交のある旧大阪坂町住民多数(主に開信講・開信尼講)並びに片山村有志より
寄進を募り建立
片山薬師堂に隣接
片山神社
大和川・国豊橋を渡って堤防を歩く
大和川の付け替え
かつて、大和川は、柏原村で南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れ、
久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて流れて、各川や池と合流しながら
最後はそれぞれ淀川へと注いでいました。
大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑
が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが、常に洪水の危険がつきまとっていま
した。川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天
井川となっていたことや、河口にも土砂が堆積していくことで大雨時などに川の水が
排水されにくくなっていたためでした。
古人も取り組んだ大和川の治水
古来、大和川の治水には、多くの人々が取り組んできました。
788年、摂津大夫であった和気清麻呂(わけのきよまろ)は、平野川、石川と合流した
大和川の一部を、今の天王寺公園の南側に通して(北側という説もあります)、大阪
湾へ流そうと計画しました。多くの予算と人夫約23万人を使ったにもかかわらず、完
成には至りませんでした。
また、江戸時代に入ってからは、河村瑞賢(かわむらずいけん)が安治川の改修・大
和川の浚渫(しゅんせつ)・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画、3
年がかりで改修工事を行いました。しかし、瑞賢の死後、2年連続で大洪水が起こり、
年貢を納めることができない村が出るまでに至る事態が起こったのでした。
江戸時代、元和(1615~1624)から元禄(1688~1704)にいたる間に、十数回に及
び堤防の決壊などによる大水害が起こりました。今米村(現在の東大阪市)の中甚兵
衛ら、河内・讃良(ささら)・若江・茨田(まんだ)など各郡の代表者たちは、自分たちの
土地を洪水から守るため、大和川の流れを柏原の大和川と石川の合流点から西へ
向け、住吉・堺方面へ流す案を何度も幕府に嘆願しました。嘆願の理由は、この付替
えによって、15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれ、旧河床には新田
が開けて作物の増収が期待できるから、というものでした。
しかし、大和川の付替え予定地にあたる村々では、新しい川によって、先祖伝来の家
や田畑がつぶされるため、激しい反対運動が起こりました。
元禄16(1703)年10月28日、幕府は大和川付替えを正式に決定しました。
翌年の元禄17(1704)年2月27日、工事は川下にあたる堺の海側からはじめられまし
た。『河内堺新川絵図』には「御鍬初」として、この日が記されています。工事は、河州
志紀郡柏原村と船橋村の中間である石川合流点付近から西へまっすぐ堺浦まで流す、
延長131町(約14キロメートル)・幅100間(約180メートル)の川筋を、河底を掘り下げ
るのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法が多くとられました。
3年間の工事予定が各藩が競争して取り組んだ為、約8ヶ月で工事が完了しました。
大和川の付替え工事によって、少しでも土地をなくした村は40ヵ村にのぼり、約270ヘ
クタールにおよび家や田畑がなくなりました。
しかし、付替えの翌年(宝永2(1705)年)から、久宝寺川や玉櫛川などの旧川筋、新開
池(しんがいけ)や深野池(ふこのいけ)などの新田開発が始まり、付替えから5年後には
約1,060町歩(約1,050ヘクタール)の新田が開発されました。これは地代総額で37,000
両余となり、幕府が費やした付替えの費用分を補てんしました。幕末には、旧大和川筋
の新田開発は53カ所、石高10,953石に達しました。
開発された新田は、今ではほとんどが住宅地となっています。
大和川付け替えにより大きく変わった事は河内木綿産業&綿油工場拡大と堺港の衰退
大和川治水記念公園
中甚兵衛像
江戸中期の治水家。河内(かわち)国河内郡今米村(大阪府東大阪市)庄屋(しょうや)川
中九兵衛(くへえ)の三男。父の九兵衛は大和(やまと)川流域を水害から守るため、河道
の変更を計画して幕府に嘆願、志を果たさず死去した。遺志を継いだ甚兵衛は、川筋付
替え運動の中心人物として奔走、上方(かみがた)代官万年長十郎の支援を得て幕府に
訴願を重ね、ついに1703年(元禄16)公儀普請(こうぎふしん)の実現に成功。翌04年
(宝永1)新大和川が開通し、新田1063町歩が開発された。養家の中姓を称し乗久(じょ
うきゅう)と号した。享保(きょうほう)15年2月25日没。91才。
寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日( 1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。
JR柏原駅へ向かう
JR柏原駅~天王寺駅
あべのハルカス
湯処・あべの橋・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
居酒屋 甘太郎・・・7名
2次会は4名でカラオケ
昼飲み会ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と4人で最終ゴールは居酒屋での昼飲み会、途中で銭湯もあるが、恒例
の月に一度の昼飲み会ハイキングである、M吉さん・K場さん・Y田さんと田原の4人、
今回のコースは、
近鉄 てくてマップハイキング大阪⑭まっぷ 河内国分駅スタートでJR柏原駅迄
河内国分駅(スタート・捺印)~西町地蔵尊~奈良街道~松岳山古墳&国分神社~長尾
街道~田辺廃寺跡(春日神社)~初吉稲荷社~玉手山学園(立教館)~玉手山公園~片
山薬師堂・片山神社~大和川治水記念公園~JR柏原駅
JR柏原駅から天王寺駅へ、そこからキューズモール裏手の銭湯、湯処・あべの橋へ、銭湯
で汗を流して14:50にJR天王寺駅中央改札551蓬莱の前辺りで飲み会参加者と待合せ・・・
15:00~17:00 居酒屋で恒例の昼飲み会、気が付いたら4人で2次会のカラオケへ
此の日の私の万歩計は、26780歩で約19.8km歩いたことに・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社
鹿島神社は古来より『もりのみやさん』『おおぎのみやさん』の名で親しまれております。
当社の創建は、高倉天皇の承安二年(1172年)源氏の郎党・鎌田小次郎藤原政光(光
政)が、常陸国(茨城県)鹿島郡の鹿島神宮より御分霊を賜り、当地に勧請したと伝え
られています。
河内国分駅で待合せ~西町地蔵尊
奈良街道・長尾街道分岐
松岳山古墳&国分神社
松岳山古墳
松岳山古墳(国史跡)は墳丘長130mの前方後円墳です。板状の石を積み上げて築か
れた墳丘、大きな石を組み合わせた石棺とその前後に立つ孔の開いた立石、大きな
楕円筒埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、その西にある玉手山古墳群ととも
に、古くからたいへん注目を集めてきました。
現在松岳山古墳は、前方部の一部を除いて墳丘は良好に残っており、後円部には墳
頂に石棺が露出しており、見学することができます。(国分神社社務所の許可必要)
国分神社
国分神社 鎌倉時代の創建 大国主命 小彦名命 飛鳥大神を祀る。
境内裏山は松岡山古墳(古墳時代前期の前方後円墳)
長尾街道
長尾街道は紀州街道の堺戎之町を起点とする「日本書紀」の天武天皇元年(672年)
7月条の壬申の乱における戦いの記述中に見える「大津道」であるといわれる古道。
塩出山西法寺(浄土真宗本願寺派 西法寺)
大阪府柏原市に位置する西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代蓮如
上人の教化により浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
西法寺の西門に石碑が建っています。その石碑に西法寺の歴史が記されてあり、そ
の碑文を書き写したものが残っています。
今から約1400年前、聖徳太子が仏法を広めるため「塩出山 浄生院 放光寺」というお
寺を枯栖山(今の芝山らしい)のふもと、杜本神社の近くに建てられました。
初代の住職は「実言」という方でした。その後宝亀3年(772年)火災で、堂塔、門など
すべて焼失して僅かに礎石を残すだけとなったために、小さなお堂を建てて法灯を護
り続け、創建以来900年が経ち、第53代「実弘」の時代となりました。
当時の国分代官「安藤 善正」は実弘の弟であり、兄弟で本願寺第8代の「蓮如上人」
を慕い、そのみ教えを信奉して浄土真宗に帰依しました。それが文明8年(1476年)の
ことです。そこで、西法寺は「善正」を浄土真宗としての開基住職としています。
その後「蓮如上人」が当寺にお立ち寄りになり7日間御逗留され、浄土真宗のみ教え
をお説きになられました。「放光寺」が「西法寺」という名前(寺号といいます)に変わり
ましたのは、慶長12年(1607年)10月に本願寺第12代宗主准如上人より「西法寺」の
寺号を賜り公称するようになりました。第8代住職「善空」の時に現在の地に移転し。
田辺廃寺跡へ向かう
不道明王堂
田辺池
田辺廃寺跡(たなべはいじあと)
(春日神社境内)
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本貫地(ほんがんち:本拠地)とした百済系渡来氏
族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われています。1971 年の発掘調
査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であること
が判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、
西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てら
れていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土遺物も境内
の収蔵庫に展示されています。
此処までは、
2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-02
続きは、初吉稲荷社~
初吉稲荷社(おいなり古墳)
おいなり古墳遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいなり
古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬施設
は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認できて
いません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古墳が複
数存在した可能性が考えられています。
玉手山学園へ向かう
道路脇にアロエの花が咲いていた
玉手山学園キャンパス(立教館・藤蔭庵)
立教館は文政13年(1830年)、頼山陽(らいさんよう)に学んだ国分村の柘植常熙(つげ
じょうき:葛城)が郷土の子弟にも教育を受けさせようと、地 元の有志を募って建てた私
塾です。頼山陽も何度かここを訪れ講義を行いました。また、裏手を流れる大和川の眺
めを賞賛し、「河内嵐山」と評したとも伝えら れています。施設の老朽化と塾生の増加に
伴い、文久3年(1863年)から新たな学舎の建設にかかり、明治4年(1871年)に完成し、
国分村小学校立教館として開校しました。その後、立教館は昭和9年(1934年)まで国
分小学校の一部として使用されていました。現在は、玉手山学園の敷地内に移築されて
います。
藤蔭庵
原川コミュニティー道路
玉手山公園へ向かう
小松山古戦場跡碑
玉手山1号墳
公園(昼食)
片山廃寺跡
片山薬師堂
半田三吉 僧名 戒弘(カイコウ) 生没年 慶応貳年~昭和貳拾年(1866~1945)
奈良県吉野郡洞川大峰山龍泉寺住職 羯磨真弘(カツマシンコウ)師に師事。
戒弘氏所有の土地(大阪府南河内郡国分町片山百七十七番地)に私財を投入し
親交のある旧大阪坂町住民多数(主に開信講・開信尼講)並びに片山村有志より
寄進を募り建立
片山薬師堂に隣接
片山神社
大和川・国豊橋を渡って堤防を歩く
大和川の付け替え
かつて、大和川は、柏原村で南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れ、
久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて流れて、各川や池と合流しながら
最後はそれぞれ淀川へと注いでいました。
大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑
が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが、常に洪水の危険がつきまとっていま
した。川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天
井川となっていたことや、河口にも土砂が堆積していくことで大雨時などに川の水が
排水されにくくなっていたためでした。
古人も取り組んだ大和川の治水
古来、大和川の治水には、多くの人々が取り組んできました。
788年、摂津大夫であった和気清麻呂(わけのきよまろ)は、平野川、石川と合流した
大和川の一部を、今の天王寺公園の南側に通して(北側という説もあります)、大阪
湾へ流そうと計画しました。多くの予算と人夫約23万人を使ったにもかかわらず、完
成には至りませんでした。
また、江戸時代に入ってからは、河村瑞賢(かわむらずいけん)が安治川の改修・大
和川の浚渫(しゅんせつ)・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画、3
年がかりで改修工事を行いました。しかし、瑞賢の死後、2年連続で大洪水が起こり、
年貢を納めることができない村が出るまでに至る事態が起こったのでした。
江戸時代、元和(1615~1624)から元禄(1688~1704)にいたる間に、十数回に及
び堤防の決壊などによる大水害が起こりました。今米村(現在の東大阪市)の中甚兵
衛ら、河内・讃良(ささら)・若江・茨田(まんだ)など各郡の代表者たちは、自分たちの
土地を洪水から守るため、大和川の流れを柏原の大和川と石川の合流点から西へ
向け、住吉・堺方面へ流す案を何度も幕府に嘆願しました。嘆願の理由は、この付替
えによって、15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれ、旧河床には新田
が開けて作物の増収が期待できるから、というものでした。
しかし、大和川の付替え予定地にあたる村々では、新しい川によって、先祖伝来の家
や田畑がつぶされるため、激しい反対運動が起こりました。
元禄16(1703)年10月28日、幕府は大和川付替えを正式に決定しました。
翌年の元禄17(1704)年2月27日、工事は川下にあたる堺の海側からはじめられまし
た。『河内堺新川絵図』には「御鍬初」として、この日が記されています。工事は、河州
志紀郡柏原村と船橋村の中間である石川合流点付近から西へまっすぐ堺浦まで流す、
延長131町(約14キロメートル)・幅100間(約180メートル)の川筋を、河底を掘り下げ
るのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法が多くとられました。
3年間の工事予定が各藩が競争して取り組んだ為、約8ヶ月で工事が完了しました。
大和川の付替え工事によって、少しでも土地をなくした村は40ヵ村にのぼり、約270ヘ
クタールにおよび家や田畑がなくなりました。
しかし、付替えの翌年(宝永2(1705)年)から、久宝寺川や玉櫛川などの旧川筋、新開
池(しんがいけ)や深野池(ふこのいけ)などの新田開発が始まり、付替えから5年後には
約1,060町歩(約1,050ヘクタール)の新田が開発されました。これは地代総額で37,000
両余となり、幕府が費やした付替えの費用分を補てんしました。幕末には、旧大和川筋
の新田開発は53カ所、石高10,953石に達しました。
開発された新田は、今ではほとんどが住宅地となっています。
大和川付け替えにより大きく変わった事は河内木綿産業&綿油工場拡大と堺港の衰退
大和川治水記念公園
中甚兵衛像
江戸中期の治水家。河内(かわち)国河内郡今米村(大阪府東大阪市)庄屋(しょうや)川
中九兵衛(くへえ)の三男。父の九兵衛は大和(やまと)川流域を水害から守るため、河道
の変更を計画して幕府に嘆願、志を果たさず死去した。遺志を継いだ甚兵衛は、川筋付
替え運動の中心人物として奔走、上方(かみがた)代官万年長十郎の支援を得て幕府に
訴願を重ね、ついに1703年(元禄16)公儀普請(こうぎふしん)の実現に成功。翌04年
(宝永1)新大和川が開通し、新田1063町歩が開発された。養家の中姓を称し乗久(じょ
うきゅう)と号した。享保(きょうほう)15年2月25日没。91才。
寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日( 1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。
JR柏原駅へ向かう
JR柏原駅~天王寺駅
あべのハルカス
湯処・あべの橋・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
居酒屋 甘太郎・・・7名
2次会は4名でカラオケ