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3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-2

3月27日      3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-2
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、K場さんO村さんM村さんI田さんと5名で歩きました、又甘酒にたどりつかず。
近鉄駅フリーハイキング 酒蔵みてある記 大和八木駅コンコース(受付)9時半~11時
コース    ハイキング終了後 ※今井町でいつもの胡瓜の奈良漬けGet
大和八木駅(受付)~入鹿神社~人麻呂神社~宗我坐宗我都比古神社~天高市神社~
今井町~河合酒造(試飲・甘酒ふるまい)~八木西口駅 → 柏原神宮前駅でお茶
お水とりも終わって春の陽気に、此の日の私の万歩計は、20402歩で約15km歩いた・・・
ハイキング参加者は1200名超え、我々5名は今回も抽選会には縁無し・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝
わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)
が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管
されている。
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近鉄下田駅へ
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大和八木駅(受付)~
入鹿神社へ向う
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入鹿神社・・・蘇我入鹿公を御神体とする神社
入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって
建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両
柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」
といった地名も残っています。
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※入鹿神社の伝説 (橿原市小綱町)
蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったといわれ
る。また、小綱で生れたものは多武峯へ参ると腹痛が起るといわれ、また、高市郡明日香
村の小原は藤原鎌足の母の出世地だというので、小綱と小原は縁組しないといわれた。

正蓮寺 大日堂
正蓮寺大日堂は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の本堂で、普賢寺の創建年代につ
いては全く明らかにすることはできないが、その建立年代は棟札により文明10年(1478)
の上棟であることが分かっている。
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人麻呂神社
人麿(ひとまろ)神社は、万葉歌人で三十六歌仙である柿本人麻呂(かきのもとのひとま
ろ)を祭神とする神社です。石灯籠と狛犬は明治14年に奉献されています。
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宗我坐宗我都比古神社へ向う
土筆を見つけた
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宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこじんじや)
宗我都比古神社の祭祀は、社名・神名に「ソガツヒコ(宗我都比古)」と見えることから、古
代豪族の蘇我氏(そがうじ)に関係すると考えられている。蘇我氏は著名な氏族であるが、
その本拠地(本貫)は明らかとなっておらず、宗我都比古神社の鎮座地である大和国高
市郡曾我(橿原市曽我町一帯)に比定する説のほか、大和国葛上郡(御所市一帯)に比
定する説、河内国石川郡(大阪府富田林市東半・南河内郡一帯)に比定する説の3説が
知られる。そのうち1説目(当地)は、地名「曾我」や宗我都比古神社の存在、および『紀
氏家牒』で蘇我石河宿禰について「家二大和国高市県蘇我里一」とあることから、特に
有力視される地域になる。
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此処までは、
3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-27
続きは、天高市神社へ向う~
蘇我川緑地体育館でトイレ休憩&昼食
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蘇我川沿いを
天高市神社へ向う~
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天高市神社(あめのたけちじんじゃ)
創祀年代は不詳。式内社・天高市神社に比定されている古社で、貞観元年に従五位上
を叙された神社。中世から江戸期には八幡宮と称し、本来の祭神素盞嗚尊に加えて、八
幡三神を合祀し、御神体の神像も木像四体であるらしいが、いつの頃か祭神が一柱とな
り、現在の事代主神となったという。
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今井町へ向かう
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今井町
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。
江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的に貴重な
財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。
東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟
弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています
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春日神社
今井町の西南隅、南北を環濠に囲まれた森の中に鎮座する。天児屋根命を祀る
旧指定村社である。創始年代は明らかでないが、当社現存最古の石燈籠銘に
「慶安五壬辰年仲春吉日」とある。廃仏毀釈前天台宗多武峯末に属した常福寺と
して当社は鎮守であったというが、その棟札に「上棟大和国高市郡今井常福寺」
「干時慶長十八年七月癸丑十六日敬白」とあり、当社の神宮寺として慶長十八年
(1613)に上棟している。このことは当社最古の石燈籠の奉納に先たつこと39年
前ということになるが、当社は遅くとも江戸初期以前に創始されていたことに成る。
現在当社神域全体が全く寺院の姿を呈しているのは、かって常福寺の伽藍の中
に当社がその鎮守として存立していたが明治初年に廃寺となり、春日神社のみ残
されたことになる。
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称念寺(しょうねんじ)
稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。
現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆
今井兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、
我孫子の城主をも兼ねていた。
彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和議の使者のひとりとして兵
部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときで、
時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なか
んずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院
を統轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を
果たしている明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、
御一泊の後堺に向け御進発遊ばされた。
西南の戦争の始まりであった。
平成十四年(2002年)五月二十三日、本堂、国の重要文化財に指定される。
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河合酒造へ向かう
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河合酒造(試飲・甘酒ふるまい)
「出世男」の醸造元である河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定さ
れていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史あ
る蔵元です。
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高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
創祀年代は不詳だが、社伝によると成務天皇の御代に創立。 式内社・高市御縣神社
に比定されている古社で、高市県主に任ぜられた天津彦根命の後裔が祖神を祀った
神社。 大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。延喜式では、高市、葛木、
十市、志貴、山辺、曽布の六社でその中の第一位。
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八木西口へ向かう
桜が・・・
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八木西口駅
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五位堂駅
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おまけ
我家の玄関前の沈丁花
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3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家ー2

3月25日       3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家ー2
                 歴史探訪の会 例会 歩程約7㎞ 
第61回歴史探訪の会(3月度例会) 近鉄磐城駅(受付) 10時集合
近鉄磐城駅(受付)~竹之内街道・長尾神社~竹之内街道~長尾街道~当麻寺~
石光寺~高雄寺~ゆうあいステーション(昼食)~田園地帯~大倉本家(利き酒 
有料)・集合写真撮影~当麻寺駅(2時半頃)
石光寺 拝観料@300円 JAFカード割引@270円 大倉本家 利き酒3種@500円
此の日の私の万歩計は、2446歩で約15.1km歩いたことに・・・
近鉄磐城駅(受付)
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竹之内街道
大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に至る
約26kmの街道で、推古天皇21年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の官道で
す。沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町として栄え
ました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌碑が建立さ
れており、俳人の憩いの場となっています。また司馬遼太郎(しばりょうたろう)
氏の母の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。その著書
『街道をゆく』の中でも竹内街道のことを語っています。
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長尾神社
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)と
白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。当社の創建は明らかではあり
ませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延喜式(えんぎしき)」神名帳に
も記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神社です。また放光寺古今
縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に天武天皇が壬申の乱
で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定められたと記
されています。古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から竹内街道を通っ
て大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の入口となる所で
あり、重要な場所に社地を構えていました。そして現代に至っても、この長尾の地
は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要
衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様と
しても、厚く信仰されています。
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竹之内街道&長尾街道
長尾街道
長尾街道は紀州街道の堺戎之町を起点とする「日本書紀」の天武天皇元年(672年)
7月条の壬申の乱における戦いの記述中に見える「大津道」であるといわれる古道
です。長尾神社の手前で竹之内街道に合流する。
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当麻寺へ向かう
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此処までは、
3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-25
続きは、当麻寺~
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当麻寺
當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。
法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在
信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗
の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創
については不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で
知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多
くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時
代 -平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両搭が
残る日本唯一の寺としても知られる
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※中将姫伝説
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれる
ようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てら
れた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。
ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経
する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」という
ところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったん
は都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が
五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮
の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光
寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立った
のであった。

石光寺
別名「染寺(そめでら)」とも呼ばれ、中将姫(747〜775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」が
ある。右大臣藤原豊成(704〜765)の娘、中将姫は美貌で知られたが、 17歳で出家、当
麻寺にこもるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。 そして石光寺の庭に 井
戸を掘り、糸を浸したところ五色に染まった。 それが染の井で、傍らの桜の枝にかけ
たのが糸掛け桜。中将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという伝
説がある。 境内には牡丹、芍薬、アジサイ、桜、さるすべりなど、四季おりおりの花
が あります。
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※ミツマタ
ミツマタは、中国・ヒマラヤ地方が原産地とされていて、ジンチョウゲ科ミツマタ属
の冬に葉を落とす落葉低木です。新芽が芽吹く前の2月~4月にかけて枝先に花だけが
開花し、早春を告げる花として親しまれてきました。その小さい花の姿は、びらはな
く銀色の綿毛に覆われており、かわいらしい黄色の花がボンボンのように丸く密集し
た状態で咲きます。蜂の巣をぶらさげたように下を向いて咲く花には芳香があり、そ
の香りは春の訪れを連想
させるような、甘酸っぱい可憐な香りです。
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高雄寺
役行者が開創し、院政時代には御願寺であったとされるが不詳。また、「高尾千軒」
といったほど大きなお寺だったと伝わるが、今は収蔵庫と鐘楼を残すのみである。
かつては真言系のお寺だったらしいが、現在は浄土真宗。 本堂が平成11年に焼失
して以来、再建されていないお寺です。
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ゆうあいステーション(昼食)
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田園地帯~大倉本家へ
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大倉本家(利き酒 有料)
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。
以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて
山廃酒母で仕込んでいます。昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」
造りが始まりました。3代目勝彦のときに 特定名称酒醸造を開始しました。
地元で強い地盤を持たさせていただけ、最盛期は年間6000石近い販売量がありま
した。この間 全国新酒品評会で金賞をいただいたこと数回。しかし、諸々の事情
で平成12年秋の濁酒の仕込みを最後に、休造を決断します。
平成15年度原料米申し込み期限の前日でした。11月中旬、長年「金鼓」で指揮をと
って下さっていた杜氏の皆さんが蔵入り。3年ぶりに酒造りを再開させて頂くこ
とになりました。
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当麻寺駅

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3月11日の酒蔵みてある記 大倉本家「大倉」-2

3月23日       3月11日の酒蔵みてある記 大倉本家「大倉」-2
                 近鉄駅フリーハイキング 歩程約8㎞
此の日は、知人と4名で参加、K場さん、M村さん、O村さんと田原で歩いた・・・・
近鉄駅フリーハイキング 大和高田駅 2F改札口受付10時半~11時
大和高田駅 2F改札口(受付)~有井環濠集落~顕宗天皇御陵磐園陵参考地
~児童公園~大谷自然公園(昼食)~大倉本家(試飲・粕汁ふるまい)~M村さん、
O村さんの2名葉当麻寺駅へ、K場さんと私は五位堂駅へ帰った、参加者1067人。
此の日の私の万歩計は、18856歩で約13.9km歩いたことに
志都美駅
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大和高田駅(受付・スタート)
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有井環濠集落へ向かう
左手に二上山
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有井環濠集落
※有井環濠は、有井城とも呼ばれた当麻氏の居館を中心にした環だ。 当麻氏の居
館であった正行寺境内は、現在でも四方を堀が囲繞していて中世豪族の居館そのも
のの雰囲気が残っている。
磐園小学校西側に「弘法の井戸」があり、この脇に有井環濠の案内板が立てられい
るが、それによれば有井環濠は輪郭式に外濠がある縄張りで、この案内板から西側
の住宅地一帯が環濠集落で、集落の北側に外濠の一部が残存している。
有井環濠は、文明年間に当麻為綱が居館を本願寺蓮如に寄進して正行寺を建立し、
この寺を中心として周囲に環濠集落が形成されてた。
当麻氏は大和朝廷時代から続く一族で、国民(春日大社神徒)として大和中世武士と
して名が史料に出てくる高田城主高田(当麻)氏が嫡流家で、有井当麻氏は分家筋。
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現在の正行寺
正行寺(しょうぎょうじ)は文明2年當麻四朗為網が(1470年)本願寺八代蓮如上人に帰依
して出来た寺で大和高田では最初の真宗寺院です。500年以上に渡って現在の地で教
化活動を続けています。 境内地は2千坪を有し、ゆったりとした佇まいのお寺です。

正行寺 (有井)真宗大谷派。 本尊は阿弥陀如来である。
大和志によると有井村にあって蓮如上八の真影があり、明応二年九月蓮如が讃して円
浄に与えたとあり、亦寺記によれば、文明年中当麻四朗為網が古城地をもって、蓮如上
人に帰依して建てられたのが正行寺であるといわれているから、その創建は明かである
が、亦一方寺伝によると、当麻四朗為網は文明年中の人であるともいわれている。
有井山と号し、真宗大谷派。開基、円浄。本尊、阿弥陀如来。本堂・庫裡・客殿・表問あり。
享保年中(一七一六-三六)並河永らが編さんした『大和志』には、蓮如真影に実如が讃を
したものを、明応二年(一四九三)九月一九日に写し、和州葛下郡平田有井芭円浄(当麻
四朗為網)に与えたとあり、また寺記に、文明年中(一四六九-八七)当麻四朗為網が古
城地をもって蓮如に施与し、正行寺を造立したとある。宗祖親鸞聖人の墓所である「大谷
廟堂」を発祥とする「本願寺」(「東本願寺」)を本山とする。
包括関係にある末寺数は9000か寺を数える。信者数約694万人は浄土真宗(真宗)の
各宗派中最大であり、また、仏教系の宗教法人の中でも最大数を誇っている。
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顕宗天皇御陵磐園陵参考地~児童公園
築山古墳(つきやまこふん)
築山古墳は、実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磐園陵墓参考地」(被葬
候補者:第23代顕宗天皇)として陵墓参考地に治定されている。
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隣接する
児童公園に登り
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大谷自然公園(昼食)
大谷山自然公園(おおたにやましぜんこうえん)
公園のすぐ南東に位置する築山古墳を盟主墓とした馬見古墳群の南群に属する古墳
密集地帯。付近の住宅地内にも、大小多くの古墳が残存し、園内にも確認出来るだけ
で2基の古墳が保存されている。
文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の命により、一旦引退させられた真宗大谷派の祖である
教如上人が、大谷山に遊山に訪れ、親鸞上人ゆかりの大谷と同名であったことから、
非常に喜び、当時山上にあったという真願寺を大きくして、西方の大谷村中に移した。
後にこの寺は大和国を管轄する大和大谷別院となった。
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此処までは、
3月11日の酒蔵みてある記 大倉本家「大倉」-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-23
続きは、大谷自然公園~八幡宮
大和高田市
八幡宮
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香芝市
出屋敷公園
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長池
羊の親子が草をたべている
IMG_8971.JPGIMG_8972.JPGIMG_8973.JPG 大倉本家(利き酒 有料)  明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。 以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて 山廃酒母で仕込んでいます。昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」 造りが始まりました。3代目勝彦のときに 特定名称酒醸造を開始しました。 地元で強い地盤を持たさせていただけ、最盛期は年間6000石近い販売量がありまし た。この間 全国新酒品評会で金賞をいただいたこと数回。しかし、諸々の事情で平成 12年秋の濁酒の仕込みを最後に、休造を決断します。 平成15年度原料米申し込み期限の前日でした。11月中旬、長年「金鼓」で指揮をとっ て下さっていた杜氏の皆さんが蔵入り。3年ぶりに酒造りを再開させて頂くことになり ました。 IMG_8975.JPGIMG_8976.JPGIMG_8977.JPGIMG_8978.JPGIMG_8979.JPGIMG_8980.JPGIMG_8981.JPGIMG_8982.JPG 五位堂駅 此処にも酒蔵の看板が? 澤田酒造・・・革新によって伝統を守る 私たちの創業は、天保元年(1830年)、本社のある奈良県(大和の国)五位堂の地に おいて、先達が商いをはじめたことにあります。それから間もなく、酒造りという日本古 来からの伝統の業種を選び、昭和に入ってからは酵素の製造も行ない「醗酵と醸造」 という製造理念のもとで商いが続いてまいりました。 その間、岩間の中をせせらぎが流れるように、絶えることなく、とどまることなく、商いが 流れ続けてまいりました。そこには、先達たちの努力があることもさることながら、お客 様の絶大な支持があったからであると私たちは心から感謝いたしております。 IMG_8984.JPG 五位堂駅 IMG_8985.JPGIMG_8986.JPG まほろばコーヒ IMG_8987.JPG 我家の沈丁花 IMG_8988.JPG
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3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-2

3月21日         3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-2
                  春の訪れを体験  歩程約7㎞
此の日の近鉄ハイキングには、知人と二人で参加、春うららのハイキング日和にうかれつつ。
コース  近鉄駅フリーハイキング  十条駅受付 9時半~11時   歩程約7㎞
十条駅(受付)~吉祥院天満宮~鳥羽伏見の戦い勃発地碑~鳥羽離宮跡~城南宮~白河
天皇陵~竹田駅
後半の竹田駅周辺、白河天皇陵~武田駅以外は初めて訪れるところばかりだったので新鮮。
此の日の私の万歩計は、22220歩で約16.4km歩いたことに・・・

吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)
吉祥院天満宮は京都市南区にある神社で、主祭神は菅原道真公であり、由来によると京都市
上京区の北野天満宮より早い934年(承平4年)に創建された初の天満宮である。菅原家が信
仰する吉祥天を祀る吉祥院を邸内に建立し氏寺としており、菅原道真公生誕の地とされる(生
誕の地には異説もあり)
菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が平安遷都に際し天皇の供として入京し賜っ
た地でここに邸を構えた。祖父の代に菅原へ改姓。祖父・菅原清公が遣唐使として唐へ向かう
途上(もしくは帰国時)、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では
吉祥天信仰となる。
清公が帰国後もしくは道真の父・菅原是善が、この地の自邸内に祀り吉祥院とした。これが地
名の由来ともなる。
菅原道真はこの地で845年(承和12年)に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされ
る。903年(延喜3年)に道真が大宰府の地で没した後、この地で吉祥院聖廟をおきその霊を祀
る。その後、怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、934年(承平4年)この地に社殿を築くなど
して道真公の霊を祀ったことが始まりとなる。
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※北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。通称として
天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、
当社から全国各地に勧請が行われている。学問の神として受験生らの信仰を集めている。
延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災
害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこ
で、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942
年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国
の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)
現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。

鳥羽伏見の戦い勃発地碑へむかう
せせらぎ広場
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西高瀬川を渡る
西高瀬川
京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町(渡月橋の東、数百メートル)の桂川から取水し、京都市伏
見区下鳥羽上向島町で鴨川に注ぐ。 流路は直線的で、直角に流れる方角を変える。
江戸時代初期に角倉了以により大堰川が開削され、丹波地方と京都の間の水運が確保され、
その大堰川によって運ばれた丹波地方の木材などを、京都側の終点である渡月橋上流から、
市中心部に直接引き込むための運河として、文久3年(1863年)に嵯峨(渡月橋上流)~千本
三条が開削された。 のちの、明治3年(1870年)、当時の京都府が引き継ぐ形で伏見の鴨川
まで開通。運河以外にも、京友禅などの染物の工場から出る排水を流すための下水路として
の役割も担っており、川の色が日によってさまざまな色に変わったといわれている。しかし、鉄
道や道路などの陸運網が発達していくにつれ、利用価値が次第に薄れていき、運河としての
機能を失っていった。
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鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政
を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建
ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。
史跡公園。市バス城南宮道すぐ。
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鳥羽伏見の戦い勃発地碑
大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩を討つため上洛を決意、慶応4
(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。鳥羽街
道を北上する幕府軍と,これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍は,この地
小枝橋で衝突した。
幕府軍1万5千人と官軍6千人の激しい戦いであった。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰
戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地を示すものである。
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城南宮
城南宮は、平安遷都(794年)の際に都の南の守護神として創建されたのが始まりとされる。
他にも、かつて、この地にあった城南寺の鎮守社として創建されたのが始まりという説も有る。
祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯比売命
(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)である。
応徳3年(1086年)には、白河上皇が城南離宮を造営し、その鎮守社となる。また、この頃より、
熊野詣の精進所となり方除けの信仰が高まった。
なお、城南宮の神紋は神功皇后の旗印にちなんだ日・月・星を表す三光紋で、方除けの神徳
を表している。そのため、城南宮は、方除け、交通安全、旅行安全の神として信仰されている。
その後、14世紀の南北朝の争乱や応仁の乱(1467年)で荒廃するが、江戸時代に復興された。
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水路にも・・・
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コケの上にも・・・
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此処までは、
3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-21
続きは、未だ未だ城南宮の神苑 梅祭り
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椿祭り
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曲水の宴も此処で・・・
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※曲水の宴
毎年4月29日と11月3日に城南宮の神苑にある平安の庭で曲水の宴が行われる。
平安装束をまとった歌人が庭を流れるせせらぎに座り、川上から流れる盃が目の前に来る
までに歌を詠み、酒を飲むという平安時代の貴族達の遊びが再現される。

場所を変えて庭園の美・・・
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此の中で
絵で見る明治元年展も・・・
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城南宮を後にして
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白河天皇陵(しらかわ てんのう)
白河天皇は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日
(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院
流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。
後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として生まれる。母茂子、外祖父の
能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年
(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王
となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に関白藤原師実の養女・藤原賢子が
参入した。延久4年(1072年)、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、延
久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入
れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等、摂関家の権勢を弱める
ことに努める。
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北向山不動院
山号は北向山。開山は覚鑁。本尊は重要文化財で康助作の不動明王像。
大治5年(1130年)、病にかかった鳥羽天皇は、その病気平癒の祈祷を自らが帰依している
真言宗の僧覚鑁に行わせたところ、不動明王が出現するなどして天皇は回復した。その後、
天皇は勅命により覚鑁を開山として当寺院を建立し、勅願寺とした。
不動明王を本尊とし、平安京を鎮護する意味もあって不動明王像は北の平安京に向けられ
ている。それによって「北向山」の名が付けられた。
現在の本堂は正徳2年(1712年)に霊元天皇によって東山天皇の御殿を移築したものである。
鐘楼にかかる梵鐘には済深親王の銘があり、元禄7年(1694年)に名越浄味によって鋳造さ
れたものである。
「一願の護摩」といい、不動明王にその願いを聞いていただける、といわれている。
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鳥羽天皇陵
鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年
7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保
安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。
堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代
28年に渡り院政を敷いた。
生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から
7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。
幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇
の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である
藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月
23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇
の在位中は摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥羽
天皇の治世において白河院政が本格化した。
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冠石(かむりいし)
鳥羽天皇(1103~56)は譲位後,白河上皇(1053~1129)が創建した鳥羽離宮に入り、
殿舎や仏殿を増築した。その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝える。
この石標は、鳥羽離宮の冠石を示すものである。
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此処も鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政
を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建
ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。
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近衛天皇陵
近衛天皇(このえてんのう、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年
8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月
23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。
鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。
治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として生まれる。父の鳥羽上
皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子
となり、天皇の御所・小六条殿に参入。同年7月16日に親王宣下され、8月17日に立太子。
翌々年の永治元年(1141年)12月、わずか3歳(満2歳)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。
在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
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安楽寿院
真言宗智山派。1137年(保延3)鳥羽上皇が鳥羽殿に御堂を建立、阿弥陀三尊像を安置した
のに始まる。慶長年間(1596-1615)、豊臣秀頼が復興したが、再び荒廃。
現在の庫裡は塔頭前松院であった建物。本尊阿弥陀如来坐像(重文)、石造五輪塔(重文)、
絹本着色孔雀明王像(重文)などの文化財を所蔵。建立:1137(保延3)年
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竹田駅~帰る

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3月7日の青谷梅林&城陽酒造株式会社「城陽」-2

3月16 日       3月7日の青谷梅林&城陽酒造株式会社「城陽」-2
                   近鉄酒蔵みてある記 歩程約8㎞
此の日は、K場さんと二人で参加、K場さんが青谷梅林に何回か訪れた事が有ると言う
事を聞いて安心して歩けた、梅林は未だ3分咲きにも満たないくらいだったが雰囲気は
上々だ。
コース  近鉄駅フリーハイキング  新田辺駅受付10時半~11時  歩程約8㎞ 
新田辺駅(受付)~防賀川公園~山城大橋~青谷梅林~城陽酒造(甘酒・試飲・抽選
会)~JR山城青谷駅    ・・・山背青谷駅での待ち時間は寒かった・・・
城陽酒造で2名で@500円の1分間で酒粕詰放題に挑戦して2人とも酒粕を大量にGet
した。酒粕は近所にもおすそわけ、我家でも甘酒、粕汁、酒粕ケーキ?堪能していま
す。初の青谷梅林&城陽酒造良かった。此の日の私の万歩計は、20033歩で約14.8km
歩いた事に・・・
志都美駅
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郡山駅~近鉄郡山駅へ歩く
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新田辺駅(受付)
長蛇の列・・・此の日の参加者694名
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一休さんの・・・
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防賀川公園~山城大橋
木津川を渡る
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山背大橋東詰を青谷梅林へ向かう
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天満神社
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青谷梅林へ竹林を進む
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途中にも梅林と茶畑
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梅まつりののぼりや立て看板
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梅まつり会場
青谷梅林に到着
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此処までは
3月7日の青谷梅林&城陽酒造株式会社「城陽」-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-16
続きは、青谷梅林~         
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梅林で昼食&お土産を購入して
梅林をぐるっと回って城陽酒造へ向かう・・・
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城陽酒造到着
城陽酒造(甘酒・試飲・抽選会)
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JR山城青谷駅へ向かう

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3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-2

3月15日      3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-2
                近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日葉3名で参加、素晴らしいハイキング日和?暑い暑い20度超えのまるで初夏?
コース  近鉄駅フリーハイキング 壺阪山駅受付 9時半~11時10分
壺阪山駅(受付)~下屋敷門~雛の里親館~夢創館~信楽寺(お里沢市の菩提所)~
南法華寺(壺阪寺)~植村家長屋門(武家屋敷)~田塩邸(武家屋敷)~壺阪山駅 
だったがコースを変えて壷阪寺へは行かずに・・・
壺阪山駅(受付)~土佐街道町屋の雛巡り~光永寺(人頭石)~ふくもり商店 &吉野スト
アー~高皇産霊神社(たかみむすび神社)(通称)天神宮~子嶋寺~高取消防署~光明
寺~石川医院(下屋敷門)~高取城の大砲レプリカ?~雛の里親館~夢創館~信楽寺
(お里沢市の菩提所)~清水谷公園ミニジャンボ雛~ふるさと農道~植村家長屋門(武家
屋敷)~ジャンボ雛(観覚寺なかよし広場)~壺阪山駅 
此の日の私の万歩計は、22500歩で約16.6km歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝で近鉄下田駅へ乗り換え
香芝の鹿島神社
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壺阪山駅(受付・スタート)
早速お出迎えの雛飾り・・・かぐや姫の如く竹の中に
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光永寺へ向かう
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光永寺(浄土真宗本願寺派)
光永寺(人頭石、人面石とも)
光永寺の庭に、人頭石という、人の頭部を模った高さ1mほどの石像が置いてある。像の
風貌は明らかに日本人のものではなく、ペルシア人のような胡人を彫ったものという説が
流布している。
記録では、元禄15(1702)年に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り
出された猿石は五体で、うち一体は高取町土佐の寺に移されたらしい。したがって、この
人頭石も4体の猿石と同様に元々は欽明天皇陵に並んでいたと考えられるのだ。
石材も猿石と同じく花崗岩が用いられ、7世紀の製作とされている。
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※猿石
吉備姫王墓内に猿石と呼ばれる不気味な4体の石像がひっそりと置かれている。名前に
猿とあるが、実際は猿を彫ったものではない。これらの像が異様なのは、その形相のみな
らず、背面にもまた別の面妖な像が掘られていることだ。実物は陵墓の鉄柵内にあるため
表しか見られないが、飛鳥資料館の庭園にある精巧なレプリカで背面の像を確認できる。
現在は吉備姫王墓内に置かれているが、これらの石像は、江戸時代の元禄15(1702)年
に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り出され、一時は、欽明天皇陵
に置かれていた。隣の吉備姫王墓内へ移されたのは、幕末又は明治初年になってからだ
という。
ふくもり&吉野ストアーへ向かう
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ふくもり商店
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吉野ストアー
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高皇産霊神社(たかみむすび神社)(通称)天神宮
   参道を国道169号線が横切る。
神社の創設については当地、観覚寺の川合万次郎宅にその「由緒」があり、川合氏先祖
堤見氏兄弟が奉斎し、その後村の総鎮守となった事が記されているそうであり、また別の
記録にはその創建年代を貞元(976)の頃、小字タビチ山にあったものを、永観元年(983)
現地に遷祀した旨が記されているらしい。
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子嶋寺 報恩山千寿院子嶋寺(ほうおんさん、せんじゅいん、こじまでら)
当初は子嶋山寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿院と称しました。
宗派は高野山真言宗、本山は金剛峰寺、本尊は大日如来です。
その創立については、日本書紀皇極天皇3年条(644年)に蘇我蝦夷が東漢長直(やまとの
あやながのあたい)に命じて、大丹穂山(おおにほやま、高取町大字丹生谷)に建立した桙
削寺(ほこのきでら、法器山寺ほうきさんでら)の後身とする説もありますが、寺伝では、752
年孝謙・桓武両天皇の疾病を癒した僧報恩が、子島神祠(こじましんし、、高取町大字下子島
に所在する小島神社)の畔(ほとり)に国家鎮護のため伽藍を建立し、一丈八尺の観自在菩
薩と四天王像を安置して子島山寺(現在高取町大字上子島小字法華谷に所在する観音院の
傍らに建立)としたとあります。
二代目延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の麓の霊地で修行中、たまたま出会った坂上
田村麻呂が、延鎮の教えに帰依し、また延鎮が同じ出身地である高取町の子嶋山寺の住職
であることを知り、この霊地の東山に二人は力を合わせて十一面千手観音を安置し、清水寺
を建立しました。その後、田村麻呂は延鎮と協力して地蔵尊像と毘沙門天像(びしゃもんてん)
を脇士とし、本堂を広く造りかえました。征夷大将軍田村麻呂は、蝦夷征討の成功と、出陣す
る全軍の将士が仏の加護によって無事帰還できることを清水寺に祈願しました。また田村麻
呂は大和国高市郡檜隅の領地を子嶋寺に寄贈しました。延鎮は報恩が死去すると、子嶋寺
に戻り報恩の後を継ぎ、師ゆかりの子嶋寺を本寺、京都清水寺を末寺としました。平安初期
には長谷寺と壷坂寺に次ぐ大和国の観音霊場として信仰されていました。
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高市消防署
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観覚寺ジャンボ雛へ向かう
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観覚寺ジャンボ雛
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3D動物園?
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土佐街道町屋のひな飾り
土佐街道(高取町)
高取町では壺坂寺まで通じる長い長い町並みが続く。そのうち「札の辻」の交差点までの
道を地元では土佐街道と呼んでいる。明日香に都があったころ、土佐の国から都造営の
ために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷の思いからこの地を「土佐」と
呼ぶようになったといわれる。両側に水路がある狭い道に沿って、高取城の城下町に由来
する古い町並みが続いている。
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※土佐街道の敷石
阪神電鉄国道線の敷石については、意外に神社仏閣で再利用されたという話題がありま
せん。それもそのはず、大部分は線路の撤去を行わないままその上にアスファルトを被せ
てしまったためのようです。ところが1995(平成7)年の阪神大震災で国道2号線の路盤が
大きく損傷し、これを改修する際に軌道敷のレールと敷石が掘り出されました。
そして、その一部が壷坂寺で有名な奈良県高取町に引き取られ、街中の土佐街道に敷設
されました。近鉄壷坂山駅近くの土佐街道2キロほどの道路の路肩部に阪神電鉄国道線
の敷石が2列で敷設されて、良い景観となっています。
此処までは、
3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-15
続きは、光明寺~
光明寺・・・浄土宗本願寺派・光明寺
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石川医院の門
土佐街道にある「御代官所」のような建物の、『石川医院』。高取藩の御殿医として
仕えた家系とのことで、立派な門は、元は高取城の下屋敷門だったそうです。
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下土佐ふれあい広場
ミニジャンボ雛&干支戌雛
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土佐 恵比須神社
土佐街道に「土佐町の由来」と題する案内板があります。そこにはこう書かれています。
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で古里土佐国を離れこの地に召し出された
ものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着
いたところから土佐と名付けられたと思われる。故郷を離れて生きていく生活を余儀なく
された人達のたった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につけることであった。
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高取城の大砲のレプリカ?
司馬遼太郎氏が、天誅組の高取城攻めを題材にした短編「おお、大砲」は、「新潮文庫・人斬
以蔵」に収録されている。家康による大坂城攻めで使用された大砲を、維持伝承する大砲方
として禄を得ていた武家の物語だ。
家康にちなみ権現砲とも、ブリキトース(錻力徹~す)とも称された、阿蘭陀渡りの青銅製の大
砲は全部で六門。土佐国出身の隊士・那須信吾、大阪冬の陣で、その轟音により淀君の肝
を冷やして和議に傾けた大砲も、まともに火を噴いて、用を成したのは六門の内一門。
破裂弾では無く鉄球弾で、天誅組の兜武者に当たり、三日三晩耳鳴りを起こさせたと云う。
この兜武者の耳鳴りの話は、氏の創作では無く事実だったらしい。
ブリキトース砲の模型があると聞き及んでいたので向かう。大砲は玄関入口脇に鎮座してた。
三貫目玉を約六百m飛ばすにしては砲身が短い。何よりも後装式で、大阪冬の陣(1615年)
で使われた権現砲なら、砲身の筒先から火薬と玉を入れる前装式では無いだろうか。
レプリカとは云えども、これは、違う。
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雛の里親館
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夢創館~ポケットパーク 
ミニジャンボ雛
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信楽寺(お里沢市の菩提所)
   お里沢市のお墓が有る。  壺阪の つきに杖ひく 夫婦かな
「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治療した
という話があり、 (「壺阪寺古老伝」に記されている。)すでにこの頃から本尊の十一面千手
観音は民間の信仰を集めていたことが分かる。
これは後世のいわゆる盲人開眼「壺阪霊験記」の原形になったものである。
この「お里、沢一」の物語は今より三百年以上も昔(寛文年間)壺阪寺の麓、大和国高取郷
土佐町に住む沢一という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした「観音霊場記」に二世豊沢周
平と妻の千賀が加筆したものであり、浄瑠璃、歌舞伎に浪曲にとこの夫婦純愛物語は日本
中さらに海外にまで知れ渡っている。
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清水谷公園・・・此処で昼食
ミニジャンボ雛
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ふるさと農道~植村家長屋門(武家屋敷)
植村家長屋門(武家屋敷)
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壺阪山駅へ向かう 
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壺阪山駅
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3月3日の馬見丘陵公園散策・梅林他-2

3月11日       3月3日の馬見丘陵公園散策・梅林他-2
家内のウオーキングに協力して
公園館の有る中央口の中央駐車場に車を停めて、結びの広場へ向かう、蝋梅が残って
いた、 上池の横を通って、2匹のカエル君の前からウッドデッキを渡り梅林へ向かう途中
でマンサクが咲いていた、梅林は五分咲き?大勢の自称カメラマン、カメラウーマンが・・
梅林を後にして倉塚古墳を横目にみて、墳観橋に上がって巣山古墳前丘の河津桜を覗
いて見たが、未だ咲く気配が無い、墳観橋から梅林の遠景を撮って1本松古墳の横を通
り下池の横をもう1ヶ所の乙女山古墳の前にある梅園へ向かう、此処の紅白の梅も五分
咲き・・・此の日の私の万歩計は、9263歩で約6.3km歩いたことに
結びの広場へ向かう、蝋梅が残っていた
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上池の横を通って
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2匹のカエル君の前からウッドデッキを渡り
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梅林へ向かう途中でマンサクが咲いていた
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梅林は五分咲き?
大勢の自称カメラマン、カメラウーマンが・・
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梅林を後にして倉塚古墳を横目にみて
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墳観橋に上がって巣山古墳前丘の
河津桜を覗いて見たが、未だ咲く気配が無い
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墳観橋から梅林の遠景を撮って
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1本松古墳の横を通り下池の横を通り
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もう1ヶ所の乙女山古墳の前にある梅園へ向かう
此処の紅白の梅も五分咲き
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途中迄
此処までは、
3月3日の馬見丘陵公園散策・梅林他-2 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-10
此の続きは、梅園の途中~
梅園の途中
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乙女山古墳前の
花桃は未だ蕾みの状態
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下池の亀は未だ出ていない、鴨ばっかり
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古墳の丘
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菖蒲園
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アメリカデイゴの木
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バラ園はチュウ-リップ苗が植えられて
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連絡道のトンネルを北エリアへ向かう
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ダリア園から集いの丘へ向かう
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集いの丘をぐるっと一周
蝋梅やグミの実が
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集いの丘のすそ野は?パンジー苗が・・・
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花サポーターの花壇
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中央公園館の方に戻って来た
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2月27日の堺市「利晶の杜」&史跡を散策-2

3月3日       2月27日の堺市「利晶の杜」&史跡を散策-2
                  2月度の歩こう会例会
此の日は、風も無く陽もさして最高のハイキング日和となり、参加者89名となった。
コース  雨天決行  南海本線堺駅 10時集合 参加費@300円
南海本線堺駅(受付・スタート)~与謝野晶子生家跡~千利休生家跡~利晶の杜~
南宗寺~大安寺~堺市人権ふれあいセンター(昼食+資料館)~堺市役所21階展
望ロビー(解散)~南海堺東駅 → 新今宮駅 → 王寺駅
新今宮駅に着いた頃、大和路線の東部市場前駅で人身事故、大和路線がストップ、
復旧したのは約1時間後の3時25分、3時30分の快速を待つも10分遅れて40分に
到着、20分乗ってたら到着予定が45分も要して到着、長い時間かかってクタクタ・・・
此の日の私の万歩計は、17795歩で約13.1km歩いたことに・・・
志都美駅
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新今宮駅で乗換
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南海本線堺駅(受付・スタート)
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与謝野晶子生家跡へ向かう
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与謝野晶子生家跡
与謝野 晶子(よさのあきこ)
(正字: 與謝野 晶子、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、
日本の歌人、作家、思想家。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
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千利休生家跡へ向かう
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千利休生家跡
千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう)
千利休(大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から
安土桃山時代にかけての商人、茶人。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田
宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱
えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、
秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力を
もった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。
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此処までは、
2月27日の堺市「利晶の杜」&史跡を散策-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-03-1
続きは、利晶の杜~
利昌の杜
さかい利晶の杜は、堺の偉大な先人、千利休と与謝野晶子の生涯や功績にふれながら、
茶の湯体験ができたり、市内の観光情報を入手できたりと、いろいろな楽しみ方ができる
施設です。
此の日は、織田作之助(おだ さくのすけ)展が・・・
織田 作之助、1913年(大正2年)10月26日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の
小説家。終戦後太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作
(おださく)」の愛称で親しまれる。 夫婦善哉 (小説)
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南宗寺
南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩
提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、中興は沢庵宗彭、本尊は釈迦三尊である。
茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与し
た寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。
丙戌8月(1526年)に古岳宗亘が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けた。宗亘はこの
庵を法嗣の伝庵宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大
林宗套が南宗庵3代目となった。弘治3年(1557年)当時、畿内随一の実力者に上り詰
めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、
大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあった
と伝える。境内には他に、徳川家康のものと伝えられる墓・武野紹鴎の供養塔・千利休
一門の供養塔・三好一族の墓所・津田宗及一門の供養塔・中井芳滝の墓などがある。
徳川家康 墓標 - 「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途
中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れ
ていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝[5]がある
(『南宗寺史』)。墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」と
の碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが現在の墓標は水戸徳川家家
老裔の三木啓次郎が昭和42年に(1967年)に再建したもの。碑石の銘には「東照宮徳
川家康墓」とある。
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境内にある家康の墓
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堺市人権ふれあいセンターへ向かう
ユーカリの木?
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堺市人権ふれあいセンター(昼食+資料館)
人権ふれあいセンター前の公園出昼食
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舳松人権歴史館(へのまつじんけんれきしかん)& 阪田三吉記念室
阪田 三吉(さかた さんきち)
阪田 三吉(1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)は76才没。
明治から昭和初期にかけて活動した将棋棋士。贈名人・王将。堺県大鳥郡舳松村字塩
穴(現在の大阪府堺市堺区協和町)出身。姓については「坂田」との表記もあり。
堺県大鳥郡舳松村塩穴(現在の大阪府堺市堺区協和町5丁)の生まれ。生業の草履表づ
くりを手伝いながら、将棋を覚える。
1886年(明治19年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を
出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背
負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。
その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋
指しとして大阪で有名になる。この頃、当時「大阪名人」と呼ばれていた小林東伯斎(天野
宗歩四天王の一人)に教えを乞う。
1891年(明治24年)頃、関根金次郎と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。このことで阪田は
プロの道を決意したとされる。
1917年(大正6年)に八段となり、柳沢保恵伯爵の後援の下で翌年にかけて関根と平手で
6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、関根の一番弟子の土居市太郎(七段)には敗れ
ており、土居の八段昇段を許すこととなる。等々 関根名人との数々の名勝負?
終戦直後、1946年(昭和21年)7月23日に自宅で死去。没後まもなく製作された戯曲北条
秀司原作『王将』が好評を得たため、阪田の名は将棋指しとして不朽なものとなった。
通天閣に建立された王将碑。
1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。大阪市浪速区の
新世界の通天閣下には「王将」の碑がある。また生家跡にも1989年(平成元年)11月、
「王将阪田三吉顕彰碑」が堺市によって建立された。

舳松(へのまつ)集会所(旧堺市人権ふれあいセンター)
「王将阪田三吉顕彰碑」
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堺市役所へ向かう
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堺市役所
堺市役所21階展望ロビー(解散)
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南海堺東駅~新今宮駅~JR天王寺駅
JR天王寺駅
東部市場駅で人身事故があり1時間以上天王寺駅で足止め
関空特急
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2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-2

3月2日       2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-2
                 昼飲み会ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と4人で最終ゴールは居酒屋での昼飲み会、途中で銭湯もあるが、恒例
の月に一度の昼飲み会ハイキングである、M吉さん・K場さん・Y田さんと田原の4人、
今回のコースは、
近鉄 てくてマップハイキング大阪⑭まっぷ 河内国分駅スタートでJR柏原駅迄
河内国分駅(スタート・捺印)~西町地蔵尊~奈良街道~松岳山古墳&国分神社~長尾
街道~田辺廃寺跡(春日神社)~初吉稲荷社~玉手山学園(立教館)~玉手山公園~片
山薬師堂・片山神社~大和川治水記念公園~JR柏原駅
JR柏原駅から天王寺駅へ、そこからキューズモール裏手の銭湯、湯処・あべの橋へ、銭湯
で汗を流して14:50にJR天王寺駅中央改札551蓬莱の前辺りで飲み会参加者と待合せ・・・
15:00~17:00 居酒屋で恒例の昼飲み会、気が付いたら4人で2次会のカラオケへ
此の日の私の万歩計は、26780歩で約19.8km歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社
鹿島神社は古来より『もりのみやさん』『おおぎのみやさん』の名で親しまれております。
当社の創建は、高倉天皇の承安二年(1172年)源氏の郎党・鎌田小次郎藤原政光(光
政)が、常陸国(茨城県)鹿島郡の鹿島神宮より御分霊を賜り、当地に勧請したと伝え
られています。
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河内国分駅で待合せ~西町地蔵尊
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奈良街道・長尾街道分岐
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松岳山古墳&国分神社
松岳山古墳
松岳山古墳(国史跡)は墳丘長130mの前方後円墳です。板状の石を積み上げて築か
れた墳丘、大きな石を組み合わせた石棺とその前後に立つ孔の開いた立石、大きな
楕円筒埴輪など、特異な古墳である松岳山古墳は、その西にある玉手山古墳群ととも
に、古くからたいへん注目を集めてきました。
現在松岳山古墳は、前方部の一部を除いて墳丘は良好に残っており、後円部には墳
頂に石棺が露出しており、見学することができます。(国分神社社務所の許可必要)
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国分神社
国分神社 鎌倉時代の創建 大国主命 小彦名命 飛鳥大神を祀る。
境内裏山は松岡山古墳(古墳時代前期の前方後円墳)
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長尾街道
長尾街道は紀州街道の堺戎之町を起点とする「日本書紀」の天武天皇元年(672年)
7月条の壬申の乱における戦いの記述中に見える「大津道」であるといわれる古道。

塩出山西法寺(浄土真宗本願寺派 西法寺)
大阪府柏原市に位置する西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代蓮如
上人の教化により浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
西法寺の西門に石碑が建っています。その石碑に西法寺の歴史が記されてあり、そ
の碑文を書き写したものが残っています。
今から約1400年前、聖徳太子が仏法を広めるため「塩出山 浄生院 放光寺」というお
寺を枯栖山(今の芝山らしい)のふもと、杜本神社の近くに建てられました。
初代の住職は「実言」という方でした。その後宝亀3年(772年)火災で、堂塔、門など
すべて焼失して僅かに礎石を残すだけとなったために、小さなお堂を建てて法灯を護
り続け、創建以来900年が経ち、第53代「実弘」の時代となりました。
当時の国分代官「安藤 善正」は実弘の弟であり、兄弟で本願寺第8代の「蓮如上人」
を慕い、そのみ教えを信奉して浄土真宗に帰依しました。それが文明8年(1476年)の
ことです。そこで、西法寺は「善正」を浄土真宗としての開基住職としています。
その後「蓮如上人」が当寺にお立ち寄りになり7日間御逗留され、浄土真宗のみ教え
をお説きになられました。「放光寺」が「西法寺」という名前(寺号といいます)に変わり
ましたのは、慶長12年(1607年)10月に本願寺第12代宗主准如上人より「西法寺」の
寺号を賜り公称するようになりました。第8代住職「善空」の時に現在の地に移転し。
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田辺廃寺跡へ向かう
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不道明王堂
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田辺池
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田辺廃寺跡(たなべはいじあと)
(春日神社境内)
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本貫地(ほんがんち:本拠地)とした百済系渡来氏
族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われています。1971 年の発掘調
査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であること
が判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、
西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てら
れていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土遺物も境内
の収蔵庫に展示されています。
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此処までは、
2月23日の古代から近世 柏原史跡巡り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-02
続きは、初吉稲荷社~
初吉稲荷社(おいなり古墳)
おいなり古墳遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいなり
古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬施設
は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認できて
いません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古墳が複
数存在した可能性が考えられています。
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玉手山学園へ向かう
道路脇にアロエの花が咲いていた
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玉手山学園キャンパス(立教館・藤蔭庵)
立教館は文政13年(1830年)、頼山陽(らいさんよう)に学んだ国分村の柘植常熙(つげ
じょうき:葛城)が郷土の子弟にも教育を受けさせようと、地 元の有志を募って建てた私
塾です。頼山陽も何度かここを訪れ講義を行いました。また、裏手を流れる大和川の眺
めを賞賛し、「河内嵐山」と評したとも伝えら れています。施設の老朽化と塾生の増加に
伴い、文久3年(1863年)から新たな学舎の建設にかかり、明治4年(1871年)に完成し、
国分村小学校立教館として開校しました。その後、立教館は昭和9年(1934年)まで国
分小学校の一部として使用されていました。現在は、玉手山学園の敷地内に移築されて
います。
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藤蔭庵
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原川コミュニティー道路
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玉手山公園へ向かう
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小松山古戦場跡碑
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玉手山1号墳
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公園(昼食)
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片山廃寺跡
片山薬師堂
半田三吉 僧名 戒弘(カイコウ)  生没年 慶応貳年~昭和貳拾年(1866~1945)
奈良県吉野郡洞川大峰山龍泉寺住職 羯磨真弘(カツマシンコウ)師に師事。
戒弘氏所有の土地(大阪府南河内郡国分町片山百七十七番地)に私財を投入し
親交のある旧大阪坂町住民多数(主に開信講・開信尼講)並びに片山村有志より
寄進を募り建立
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片山薬師堂に隣接
片山神社
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大和川・国豊橋を渡って堤防を歩く
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大和川の付け替え
かつて、大和川は、柏原村で南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れ、
久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれて流れて、各川や池と合流しながら
最後はそれぞれ淀川へと注いでいました。
大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑
が開かれ、人々が生活を営んでいたのですが、常に洪水の危険がつきまとっていま
した。川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天
井川となっていたことや、河口にも土砂が堆積していくことで大雨時などに川の水が
排水されにくくなっていたためでした。

古人も取り組んだ大和川の治水
古来、大和川の治水には、多くの人々が取り組んできました。
788年、摂津大夫であった和気清麻呂(わけのきよまろ)は、平野川、石川と合流した
大和川の一部を、今の天王寺公園の南側に通して(北側という説もあります)、大阪
湾へ流そうと計画しました。多くの予算と人夫約23万人を使ったにもかかわらず、完
成には至りませんでした。
また、江戸時代に入ってからは、河村瑞賢(かわむらずいけん)が安治川の改修・大
和川の浚渫(しゅんせつ)・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画、3
年がかりで改修工事を行いました。しかし、瑞賢の死後、2年連続で大洪水が起こり、
年貢を納めることができない村が出るまでに至る事態が起こったのでした。

江戸時代、元和(1615~1624)から元禄(1688~1704)にいたる間に、十数回に及
び堤防の決壊などによる大水害が起こりました。今米村(現在の東大阪市)の中甚兵
衛ら、河内・讃良(ささら)・若江・茨田(まんだ)など各郡の代表者たちは、自分たちの
土地を洪水から守るため、大和川の流れを柏原の大和川と石川の合流点から西へ
向け、住吉・堺方面へ流す案を何度も幕府に嘆願しました。嘆願の理由は、この付替
えによって、15万石以上にもおよぶ村々が水害の被害をまぬがれ、旧河床には新田
が開けて作物の増収が期待できるから、というものでした。
しかし、大和川の付替え予定地にあたる村々では、新しい川によって、先祖伝来の家
や田畑がつぶされるため、激しい反対運動が起こりました。

元禄16(1703)年10月28日、幕府は大和川付替えを正式に決定しました。
翌年の元禄17(1704)年2月27日、工事は川下にあたる堺の海側からはじめられまし
た。『河内堺新川絵図』には「御鍬初」として、この日が記されています。工事は、河州
志紀郡柏原村と船橋村の中間である石川合流点付近から西へまっすぐ堺浦まで流す、
延長131町(約14キロメートル)・幅100間(約180メートル)の川筋を、河底を掘り下げ
るのではなく、堤防を盛り土したり、高台を切り開いたりする方法が多くとられました。
3年間の工事予定が各藩が競争して取り組んだ為、約8ヶ月で工事が完了しました。

大和川の付替え工事によって、少しでも土地をなくした村は40ヵ村にのぼり、約270ヘ
クタールにおよび家や田畑がなくなりました。
しかし、付替えの翌年(宝永2(1705)年)から、久宝寺川や玉櫛川などの旧川筋、新開
池(しんがいけ)や深野池(ふこのいけ)などの新田開発が始まり、付替えから5年後には
約1,060町歩(約1,050ヘクタール)の新田が開発されました。これは地代総額で37,000
両余となり、幕府が費やした付替えの費用分を補てんしました。幕末には、旧大和川筋
の新田開発は53カ所、石高10,953石に達しました。
開発された新田は、今ではほとんどが住宅地となっています。

大和川付け替えにより大きく変わった事は河内木綿産業&綿油工場拡大と堺港の衰退
大和川治水記念公園
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中甚兵衛像
江戸中期の治水家。河内(かわち)国河内郡今米村(大阪府東大阪市)庄屋(しょうや)川
中九兵衛(くへえ)の三男。父の九兵衛は大和(やまと)川流域を水害から守るため、河道
の変更を計画して幕府に嘆願、志を果たさず死去した。遺志を継いだ甚兵衛は、川筋付
替え運動の中心人物として奔走、上方(かみがた)代官万年長十郎の支援を得て幕府に
訴願を重ね、ついに1703年(元禄16)公儀普請(こうぎふしん)の実現に成功。翌04年
(宝永1)新大和川が開通し、新田1063町歩が開発された。養家の中姓を称し乗久(じょ
うきゅう)と号した。享保(きょうほう)15年2月25日没。91才。
寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日( 1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。
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JR柏原駅へ向かう
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JR柏原駅~天王寺駅
あべのハルカス
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湯処・あべの橋・・・4名
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居酒屋 甘太郎・・・7名
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2次会は4名でカラオケ

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