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2月19日の歩こう!奈良の裏道 歴史の道-2

2月27日        2月19日の歩こう!奈良の裏道 歴史の道-2
                近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と2人で参加、目玉の平城京跡東院庭園も大極殿も遺構展示館も無料で
観覧出来る館は皆定休日で拝観料の高額な?不退寺と法華寺と海龍王寺は拝観せず・・
少し残念な、心残りなハイキング?になりました・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング  近鉄奈良駅東改札 9時半~11時 
近鉄奈良駅(受付)~大仏鉄道記念公園~興福院~長慶寺~狭岡神社(さおかじんじゃ)
狭穂姫の伝承地~不退寺~佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群・ウワナベ古墳・コナベ古墳・
水上池・磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)~平城宮跡遺構展示館(昼食)~海龍王寺~法華寺
~東院庭園~平城宮跡大極殿~西大寺駅(解散)→郡山駅~源九郎稲荷神社~薬園八
幡神社~JR郡山駅
此の日の私の万歩計は、27467歩で約20.3km歩いたことに・・・
JR奈良駅
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代
天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。115才。
和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおお
ひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、「欠史八代」の1人
に数えられる。
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浄教寺
淨教寺(じょうきょうじ)は、奈良県奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の寺院で
ある。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延
と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年
(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。
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近鉄奈良駅東改札口(受付 スタート)
舟橋商店街~ 大仏鉄道記念公園
大仏鉄道(大佛鐵道)記念公園は、大仏駅跡に機関車の動輪モニュメントと説明碑が
建てられた小さな公園です。
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※大仏鉄道(大佛鐵道)
大仏鉄道とは、明治31年(1898)に開業し、加茂駅と大仏駅、翌年に奈良駅(現在の
JR奈良駅)までを結んだ関西(かんせい)鉄道株式会社の路線(通称名)です。
現在のJRの加茂駅―木津駅ー平城山駅ーJR奈良駅よりも東側を通り、勾配の大き
い坂やトンネル、橋梁が多く、当時の機関車での運行が困難であったことから、開通
から9年間で廃線となりました。
現在、当時の線路は残っていませんが、加茂駅に動輪モニュメントがあるほか、橋梁
(橋台)やトンネル跡が一部遺構として残っており、ハイキングコースなどとしても人気
があります。

大きな松ぼっくりの木
大王松(だいおうまつ)と思われる
北アメリカの東南部に分布しています。雌雄異株で、高さは20~40mになります。
樹皮は暗灰褐色で、亀甲状に裂け目ができます。葉は3個が束生し、「まつ」の仲
間では最も長い針状葉です。長さ15~25センチの大きな球果ができます。わが
国では、生け花にも利用されます。
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手焼き煎餅屋さん
  お土産に焼き立ての煎餅を購入
興福院(こんぶいん)
奈良時代に創建された浄土宗知恩院派の美しい尼寺。奈良時代には僧院として隆盛
したものの、以後衰退。もと尼ヶ辻にあったが、現在の地に尼寺として再興されたのは
将軍徳川家綱の時代のことで、参道は徳川家綱が作らせたものといわれる。小堀遠州
作庭と伝わる客殿(重要文化財)の庭園は、春日山や三笠山を借景にした非常に風情
の あるものである。なかでも、4月のツバキ、5月のサツキの季節はとくに美しい。同じ
く遠州 作の茶室もある。
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長慶寺・・・エピソードが有り過ぎて書ききれない
奈良市法蓮町に長慶寺というお寺がある。大阪平野の大念仏寺を総本山とする融通
念仏宗の寺院である。融通念仏宗の寺院数は359とされるが、奈良県内に205、そ
のうち市内に30の末寺があって、長慶寺はその一つになっている。
この寺は建立されてまだ百年に達しない新しい寺院である。開基したのは吉村長慶。
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狭岡神社(さおかじんじゃ)狭穂姫の伝承地
狭岡神社
狭岡神社は霊亀2年(西暦715年)藤原不比等(淡海公)が、国家鎮護、藤原氏繁栄の
ため勅許により己のが邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀し、崇拝しました。これが
佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって、今の狭岡神社になったのであります。
次いで藤原淡海公は天平神護景雲年間に河内の国枚岡より、藤原氏の祖神である春
日大明神を大和の国奈良の御蓋山へ移され祭祀せられました。これが今の春日神社
であります。それ以来国政の大事や、氏神春日詣りには、藤原氏一門(公家、女官た
ち)が、この佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎
をして、それより日の出を待って国政に掌り、春日社詣をしたと古事に出ています。
現在の狭岡神社は佐保の里一円の氏神様で、昔から、産業の天神、智恵の天神、災
難よけの天神さんであると崇拝され、その霊験あらたかなことは氏子中ではよく知られ
ているところであります
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狭穂姫の伝説
狭穂彦王の叛乱
狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は
夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀
を渡され天皇を暗殺するように言われる。
妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短
刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢
の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨が
かかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた
後兄の元へ逃れてしまった。
反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子が
すくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るよう
に頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意
は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて
兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名は
どうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子
とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてく
れるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉
妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し
上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。

不退寺へ向かう
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不退寺
平安遷都ののち、平城京をなつかしむ平城天皇は、上皇として都を再び平城京に戻す
ことを画策されたが成功せず、都を逃れてこの地に萱御所を営みました。上皇の崩御
後は、皇子阿保親王と在原業平が後を引き縦ぎ、承和14年(847)に業平自らが聖観
音像を刻んで当寺を開基したのが始まりとされ、別名「業平寺」とも呼ばれています。
近世の地誌類が伝える縁起によれば、大同4年(809年)、平城天皇が譲位してのち隠
棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後平城天皇の皇子である阿保親王、
更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたという。伊勢神宮参詣時に受けた神勅
を機に業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔っ
たのが、寺院としての始まりと伝えられている。
寺の近辺からは平安時代前期の古瓦や木簡が出土しており、創建がその頃までさか
のぼることは認められるが、中世以前の沿革はあまり明らかでない。
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佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群・ウワナベ古墳・コナベ古墳
・ウワナベ古墳
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航空自衛隊奈良基地
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・コナベ古墳
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・水上池
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此処までは、
2月19日の歩こう!奈良の裏道 歴史の道-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-02-26
続きは、磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)~
・磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)
ヒシアゲ古墳は、奈良県奈良市佐紀町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀
盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「平城坂上陵(ならさかのえの
みささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。
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※磐之媛命(いわのひめのみこと)
磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月(347年)は、古墳時代
の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐
姫とも記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城
襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。
孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天
皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇
30年(342年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異
母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城
宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。

水上池・・・白鳥が?
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平城宮跡遺構展示館(昼食)
平城京発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができるほか、第一次大極殿
や 内裏の復元模型を展示しています。

海龍王寺
海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。
平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。
本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てら
れたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」
「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736年)には「隅院」の
存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったこと
から付けられた名称と言われている。
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法華寺へ向かう
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法華寺
法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年
(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17
年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。
光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女など
が住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、
法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいの
てら)といった。
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東院庭園
平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。
この張出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」とよばれたようですが、孝謙・
称徳天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていました。
称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催しました。最近の研究
では、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所
を中心として営まれていたとする説があります。

平城宮跡大極殿
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平城宮跡朱雀門
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西大寺駅へ向かう
西大寺駅(解散)
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郡山駅~源九郎稲荷神社へ向う
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源九郎稲荷神社
源九郎稲荷神社は 日本三大稲荷の1つに数えられ、大和郡山城主大納言豊臣秀長
さんが郡山の鎮守として祀った神社であり、「大和の大和の源九郎さん」として親しま
れています。神社の名前である源九郎は、歌舞伎の「義経千本桜」にも出てくる源九
郎狐のことであり、この狐は、静御前が持つ初音の鼓が両親の皮で出来ていたことか
ら、それを慕って源義経の家来に化けて、義経と静に寄り添い兄頼朝に追われた二人
を守り通します。しかし、途中、義経に狐であることを見破られてしまいます。 義経は、
親を慕う狐に同情し、また自分達を狐の神通力で守り通してくれたことに感謝し、自分
の幼少名である「 源九郎」の名をこの狐に与えます。この神社は、その源九郎狐ゆか
りの神社です。
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JR郡山駅へ向かう
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薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)
八幡神社は、日本人にとってなじみのある神社ではなかろうか。八幡宮とも呼ばれ、
主に、神道において応神天皇の神霊とされる八幡神を祀っている。八幡神社は末社
を含むと、全国で4万社以上あるともいわれ、大分県宇佐市にある宇佐八幡(正式
には宇佐神宮)が総本社だ。 八幡神は、東大寺の大仏造立の際、その守護神とし
て勧請され、はるばる北九州から奈良へとやって来られた。
大仏鋳造直後の12月18日、八幡神は平群郡(現在の大和郡山市南部)から入京する。
平城京の南、梨原宮(なしはらのみや)において神殿を造って神宮とし、八幡神を迎え
祀った。
入京する際、八幡神が立ち寄った「梨原」は、かつて広大な薬園があったとされる地だ。
東大寺へと向かう際、八幡神の分霊をこの地の神殿にとどめて祀ったとされ、それが
薬園八幡神社の創始といわれる。翌750年、今の同社御旅所の地である清澄荘薬園
に遷座した後、1491年、郡山城築城に伴って現在の社地に移された。
薬園八幡神社のある一帯は奈良時代、「薬園の庄」とも呼ばれていた。その名残を偲
ばせるかのように、八幡神がとどまりし古社には薬草が植えられ、今も緑の葉をそっと
揺らしている。
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JR郡山駅~王寺駅~バスで自宅へ

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