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11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 

11月14日        11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 
                  健康上牧21計画推進事業
毎月10日は奈良県民健康の日、と言う事で我が町でも毎月10日に「ささゆりウオーク」を、
此れまでは、中々参加する機会が無かったが、この11月に参加、12月も参加できそうだ。
受付&スタートは、2000年会館前、家から歩いて15分くらいの所、9時~9時15分受付
コース  方向距離 約5km(約1.5時間) 次回12月10日は片岡城跡コース 約5.5km 
2000年会館前(受付・スタート)~滝川遊歩道~東洋シール側道~五軒家集落~雨乞い
地蔵~牧野史跡~葛城台~滝川遊歩道~2000年会館(ゴール)
私が初めて参加した、此の日の参加者は40人+ウオーキングスタッフ16人の合計 56人
いつもは80人位の参加らしい?今日の参加者はいつもの半分くらい出そうで40人・・・ 
2000年会館前に集合、向かい側に虹の湯
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さあースタート
滝川遊歩道へ向かう
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滝川遊歩道を東洋シール側道へ向かう
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東洋シール工場正門前で滝川を渡り道路を浜寿司の前迄
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川を渡り、又滝川遊歩道を歩く
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五軒家集落・雨乞い地蔵
※五軒家集落の雨乞い地蔵の昔話
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。
「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いしたらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、
村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだとい
う。この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さん
を引き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。その為か
どうか、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
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神田池(じんでんいけ)の向うに二上山賀見える
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滝川のずーつと向こうに二上山が・・・
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※奈良のむかしばなし
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。
上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うまみ)丘陵は、古代、朝
廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜ける今の舗装道路も昔
は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
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滝川遊歩道を離れて牧野史跡へ向かう
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此の続きは、
11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、牧野古墳~
牧野古墳(国指定史跡)
広陵町の『牧野古墳(ばくやこふん)』は、石舞台古墳に次ぐ大きな石室を持つ、古墳時代
末期の巨大円墳です。
丘陵の奥部にある直径約60mの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴
式石室が開口している。玄室(げんしつ)の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道(せんど
う)の長さ10.4m、幅1.8mで、全長17.1mを測る大型石室である。
玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜(くりぬき)式の家形石棺が安置され、その手前に
は組み合わせ式の家形石棺が置かれていたと考えられている。
石棺は、ともに大部分が破壊されていたが副葬品は意外に多く残されていた。装身具類
は金環(きんかん)、金銅製山梔玉(くちなしだま)、ガラス小玉、粟玉(あわだま)が、馬具
は木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板
(かがみいた)と杏葉(ぎょうよう)等が二組分出土してる。武器は、銀装の大刀と400本近
い鉄鏃(てつぞく)があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と
総数58点の須恵器があった。
古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひ
とのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)の可能性が高い。
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石室入口、今日は中へ入れる
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墳丘からの眺め
二上山も
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墳丘を下る
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墳丘を下ると牧野古墳公園
文代山古墳 (ぶんじろやま) ・・・・の石棺の底石
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※文代山古墳
方墳(南北44m、東西40.5m)周濠あり(幅20mで各辺高低差あり)埴輪、葺石あり
此の古墳から出土したと伝えられる長持式石棺の底石(竜山石製)が西方にある下水の
吐水口に転用されていたが現在、牧野古墳公園に移設されており見ることが出来る。
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葛城台へ向かう
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葛城台
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川遊歩道へ
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2000年会館前へ戻る(解散)
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中央公民館前を通り家へ帰る
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マンホールのデザインは、町花のササユリ
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おまけ
我家の鉢植えの皇帝ダリア
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