12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねてー2
12月10日 12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねてー2
近鉄駅フリーハイキング 7㎞
此の日は、知人の・O村さん・I 田さんと3名で近鉄ハイキングに参加、良い天気の
なかを気持ち良く歩く事が出来た。此の日の私の万歩計は、15956歩で約9.5㎞・・
コースは 大阪線二上駅(北口10時) Kipsポイント
大阪線二上駅(北口10時)~旭ヶ丘近隣公園~志都美神社~武烈天皇陵~太子道~
戎神社~顕宗天皇陵~鹿島神社~下田駅(ゴール) 私は、JR香芝駅へ帰った。
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
鹿島神社・・・コース最後の帰り際に立ち寄るので
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約8
00年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には
貴重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社
文書」(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財と
なり、現在は奈良国立博物館で保管されている。
大阪線二上駅(北口10時)・・・大勢の人が並んでいた、それでも167番目?
旭ヶ丘近隣公園~志都美神社へ向かう
もうすぐ志都美神社
志都美神社
祭神は、天児屋根命 中筒男命 誉田別命。境内看板によりますと、
「創建は、弘仁四年癸巳年八月九日藤原鎌足六世の孫従四位民部少輔片岡綱利により
創建された古社である。志都美神社は、香芝市今泉に位置するが江戸時代には上里村・
今泉村・高村の五ヶ所の氏神であり、厚い信仰を集めていた。特に明治十三年八月に
コレラが流行し氏子が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったの
を喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後石垣に『明治十二年八月虎列社病流行氏子祈願
無一人患者無人数叶奉納』ときざみ奉納した記念碑がある。
日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレ
ラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した。明治に入ってから同十二年に全国に流
行しての余波が十二年にまで及んだという。死者が出ないということは本当に珍しく、
ご神徳がうかがえる。また本神社の神宮寺として清水山明王院が明治の神仏分離令が
出るまであり、現在明王院という石灯篭が一基残っている。ある日盲目の法師が境内
にある井戸で目を洗うと水の霊験で目があいたという伝説があり、それゆえ一時期清
水八幡宮と呼ばれた時代があった。今も手水舎の石に八幡宮の文字が残っている。
本殿裏の社そうは椎の木を中心とした原生林で県指定の天然記念物となっている。
万葉集(巻七一.九)に『片桐のこの向う峰に椎蒔かば今年の夏の陰にならむか』と
ある。椎の原生林とかさね合わせばこの附近ではないかと思われる。歌碑は、神社参
道入り口右側にある。」とあります。
武烈天皇陵
第25代・武烈天皇陵
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第
25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。名は小泊瀬稚鷦鷯尊・
小泊瀬稚鷦鷯天皇、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人
物かどうかについては議論がある。父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇
女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天
皇の皇后)らがいる。皇后:春日娘子 - 『古事記』に見えず。皇子女なし『日本書紀』
に「男女無くして継嗣絶ゆべし」『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とあ
る。仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣
の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大
臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌
垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、
現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち年12月に即位し
て、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。なお、日本書紀は、武烈天皇の異
常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。二年の秋九月に、孕婦の腹を割
きて其の胎を観す。三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。四年の
夏四月に人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すこ
とを快としたまふ。五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、
三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、
弓を以ちて射墜として咲いたまふ。八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の
上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺
し、湿はざる者は没めて官やっことし、此を以ちて楽としたまふ。なお、これら天皇
による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
太子道・・・太子道 標識
聖徳太子が通ったとされる古代道路・街道を「太子道」といい、太子のご遺体を斑鳩
から叡福寺に運ぶのに通ったとされる事から「太子搬送の道」とも言われている。
戎神社へ向かう
此処までは、
12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねて-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-10
此処では、続きの 戎神社~ についての詳細を掲載致します。
戎神社
小高い丘の上に有り境内から旭ヶ丘ニュータウンや西名阪自動車道の香芝SAが
見渡せます、既に「戎まつり」ののぼりが多数はためいていました・・・
西名阪自動車道の香芝SAが見える
顕宗天皇陵・・・第23代・顕宗天皇陵
顕宗天皇(けんぞうてんのう、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨
国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。
弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別
命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛
(はえひめ)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる。皇后:難波小野王(難
波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』
にも「子無かりき」とある。安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺される
と、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹
後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変
えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に
使役され長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の
席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜ん
で迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、
弘計王を皇子とした。同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かし
た大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇
位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗
天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天
皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また
父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験か
ら民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳
(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお即位前に志毘臣(しびのおみ、平
群氏)との恋争いの縺れから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
鹿島神社へ向かう
公園で弁当を食べて寒い?
知悪のコメダコーヒーで温まって再スタート
二上山を眺めて
鹿島神社へ向かう
鹿島神社裏手に有るエノキ巨樹
鹿島神社・エノキの巨樹
幹周334.0cm、樹高約25m。平成8年3月12日に香芝市の天然記念物に指定される。
この辺を見ると未だ生きている
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴
重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
知人二人と此処から別行動、二人は近鉄下田駅へ
私はJR香芝駅へ
香芝駅ホームから王寺駅方面
近鉄駅フリーハイキング 7㎞
此の日は、知人の・O村さん・I 田さんと3名で近鉄ハイキングに参加、良い天気の
なかを気持ち良く歩く事が出来た。此の日の私の万歩計は、15956歩で約9.5㎞・・
コースは 大阪線二上駅(北口10時) Kipsポイント
大阪線二上駅(北口10時)~旭ヶ丘近隣公園~志都美神社~武烈天皇陵~太子道~
戎神社~顕宗天皇陵~鹿島神社~下田駅(ゴール) 私は、JR香芝駅へ帰った。
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
鹿島神社・・・コース最後の帰り際に立ち寄るので
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約8
00年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には
貴重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社
文書」(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財と
なり、現在は奈良国立博物館で保管されている。
大阪線二上駅(北口10時)・・・大勢の人が並んでいた、それでも167番目?
旭ヶ丘近隣公園~志都美神社へ向かう
もうすぐ志都美神社
志都美神社
祭神は、天児屋根命 中筒男命 誉田別命。境内看板によりますと、
「創建は、弘仁四年癸巳年八月九日藤原鎌足六世の孫従四位民部少輔片岡綱利により
創建された古社である。志都美神社は、香芝市今泉に位置するが江戸時代には上里村・
今泉村・高村の五ヶ所の氏神であり、厚い信仰を集めていた。特に明治十三年八月に
コレラが流行し氏子が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったの
を喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後石垣に『明治十二年八月虎列社病流行氏子祈願
無一人患者無人数叶奉納』ときざみ奉納した記念碑がある。
日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレ
ラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した。明治に入ってから同十二年に全国に流
行しての余波が十二年にまで及んだという。死者が出ないということは本当に珍しく、
ご神徳がうかがえる。また本神社の神宮寺として清水山明王院が明治の神仏分離令が
出るまであり、現在明王院という石灯篭が一基残っている。ある日盲目の法師が境内
にある井戸で目を洗うと水の霊験で目があいたという伝説があり、それゆえ一時期清
水八幡宮と呼ばれた時代があった。今も手水舎の石に八幡宮の文字が残っている。
本殿裏の社そうは椎の木を中心とした原生林で県指定の天然記念物となっている。
万葉集(巻七一.九)に『片桐のこの向う峰に椎蒔かば今年の夏の陰にならむか』と
ある。椎の原生林とかさね合わせばこの附近ではないかと思われる。歌碑は、神社参
道入り口右側にある。」とあります。
武烈天皇陵
第25代・武烈天皇陵
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第
25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。名は小泊瀬稚鷦鷯尊・
小泊瀬稚鷦鷯天皇、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人
物かどうかについては議論がある。父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇
女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天
皇の皇后)らがいる。皇后:春日娘子 - 『古事記』に見えず。皇子女なし『日本書紀』
に「男女無くして継嗣絶ゆべし」『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とあ
る。仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣
の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大
臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌
垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、
現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち年12月に即位し
て、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。なお、日本書紀は、武烈天皇の異
常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。二年の秋九月に、孕婦の腹を割
きて其の胎を観す。三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。四年の
夏四月に人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すこ
とを快としたまふ。五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、
三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、
弓を以ちて射墜として咲いたまふ。八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の
上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺
し、湿はざる者は没めて官やっことし、此を以ちて楽としたまふ。なお、これら天皇
による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
太子道・・・太子道 標識
聖徳太子が通ったとされる古代道路・街道を「太子道」といい、太子のご遺体を斑鳩
から叡福寺に運ぶのに通ったとされる事から「太子搬送の道」とも言われている。
戎神社へ向かう
此処までは、
12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねて-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-10
此処では、続きの 戎神社~ についての詳細を掲載致します。
戎神社
小高い丘の上に有り境内から旭ヶ丘ニュータウンや西名阪自動車道の香芝SAが
見渡せます、既に「戎まつり」ののぼりが多数はためいていました・・・
西名阪自動車道の香芝SAが見える
顕宗天皇陵・・・第23代・顕宗天皇陵
顕宗天皇(けんぞうてんのう、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨
国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。
弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別
命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛
(はえひめ)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる。皇后:難波小野王(難
波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』
にも「子無かりき」とある。安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺される
と、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹
後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変
えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に
使役され長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の
席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜ん
で迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、
弘計王を皇子とした。同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かし
た大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇
位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗
天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天
皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また
父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験か
ら民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳
(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお即位前に志毘臣(しびのおみ、平
群氏)との恋争いの縺れから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
鹿島神社へ向かう
公園で弁当を食べて寒い?
知悪のコメダコーヒーで温まって再スタート
二上山を眺めて
鹿島神社へ向かう
鹿島神社裏手に有るエノキ巨樹
鹿島神社・エノキの巨樹
幹周334.0cm、樹高約25m。平成8年3月12日に香芝市の天然記念物に指定される。
この辺を見ると未だ生きている
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴
重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
知人二人と此処から別行動、二人は近鉄下田駅へ
私はJR香芝駅へ
香芝駅ホームから王寺駅方面
2019-12-10 17:48
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コメント(4)
懐かしい!!
会社OBで友人の香芝市穴虫に住むKさんは退職後ボランティアで二上山の登山道整備の仕事を黙々とされました。かなりの重労働でしたがなかなか人にはできません。また同じ友人のNさんは羽曳野の自宅から健康のため登山をされていました。わたしは一回Nさんと登っただけです。
by WAKIの気ままなトンボの目 (2019-12-12 07:55)
WAKIの気ままなトンボの目 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
私はハイキングを初めて間もない頃に二上山へ上るイベントが
あり、大変な目にあい、此れが結果タバコを辞めるきっかけの
一つ、もう一つきっかけは東北の震災の時に奄美に帰省してて
好みのタバコが入手困難だったのでついに辞める事が出来た?
by taharas (2019-12-12 15:46)
このハイキングには興味津々。
当方12月1日のSMSを見て下さい。
当初は、二上山駅から二上駅へって考えていました?。
コースもチェック済みですが、いろいろあって結局不参加。
またの機会、よろしく。
by mamu7010 (2019-12-12 20:44)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
8日のハイキング検討しています、のSMSは見てますよ、
コースは私が勝手に変える事は無く初から二上駅~下田駅
だったのでは?と思う。明日13日のハイキング不参加です。
by taharas (2019-12-12 21:34)