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5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-2

5月15日         5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-2
               近鉄ハイキング 歩程約8km Kipsカード
此の日は知人のK場さん・I 田さん・O 村さん・S籐さんと5名で参加、天気良すぎて暑い
暑い一日でした。此の日の私の万歩計は、22000歩で約13.2km歩いたことに・・・
コース   桜井駅(9:30~10:00受付)→桜井中央公園へ 
桜井駅~650m~桜井中央公園(受付・スタート)~大和川(初瀬川)・仏教伝来之地碑・
大和川(初瀬川)沿い~脇本春日神社~白山神社~地蔵堂~十二柱神社~桜井市・出
雲~長谷寺~法起院~長谷寺駅(ゴール)
志都美駅
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大和川(初瀬川)・仏教伝来地
桜井市の三輪山の南麓に流れる初瀬川の畔に、「仏教伝来の地」の碑が立つ。
古代、この辺りには、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最初の大きな市があっ
たという。山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸の交通の要衝であり、摂
津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する、舟運の終着地でもあった。
ゆえに多くの物資が集まり、交易の中心として栄えた。
近くには欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったとされる。付近
一帯は、外国の使節が発着する水上交通の要所としても利用されるなど、外国からの
人、物、文化を迎え入れる玄関口だったようだ。
『日本書紀』によると、欽明天皇13(552)年(※)、百済(くだら)の聖明王の使者が、この
地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとさ
れる。また、聖徳太子に優れた才能を見いだされた遣隋使の小野妹子が帰国したのも
この地。隋からの使者である裴世清(はいせいせい)も下客(しもべ)12人とともに降り立
ち、朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたそうだ。
※『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年と記されている。
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大和川(初瀬川)沿い
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脇本春日神社
脇本遺跡のほぼ中心に脇本地区のの鎮守、春日神社が鎮座しています。境内に立つ杉
の老大木がその歴史を物語っているようです。この神社は三輪山から南に延びた丘陵の
尾根を削り造成された事が今もその地形から明確に読み取れます。神社の境内には古
墳時代の土器片が散乱しており朝倉宮造営の時に削平された可能性もあります。祭神は
天児屋根命、太玉命、天宇受受命で拝殿の左奥に末社の稲荷社があります。創祀由緒
は不詳ですが春日造りの本殿は慶長8年(1603)に建立された三間春日造りで知られ県
指定文化財に指定されています。尚、この神社の前の道は旧伊勢街道です。
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ご参考までに境内の説明板より
春日神社本殿 (県指定文化財)三間社春日造で、身舎の側面は二間からなり、前面吹放
とし、後面梁行に三口の板扉を設けて身舎としている。身舎の正面と両側面には縁を付け、
背面両端柱には脇障子を取り付け、縁高欄を巡らしている。向拝には浜縁を設け、正面中
央一間に、五級の木階と登り高欄を取り付けている。屋根は桧皮葺である。本殿は組物・
虹梁など、細部の手法がすぐれた三間社春日造であり、棟木銘から慶長8年(1603年)の
建立であることが明らかで、貴重な建造物である。  桜井市教育委員会
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※脇本遺跡
脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた泊瀬谷の入
り口にあたる場所にあります。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一
帯は、大王(天皇)や皇后の宮が十三もあったと伝えられ大和王権の中心地域でした。
しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っているのですが、脇本遺跡に限っ
ては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会で行われ5世紀
後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見されています。
5世紀のものについては→雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡 ,6世紀に
ついては→欽明朝の行宮の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)跡 、7世紀のものについ
ては→大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されてきました。この地は、すぐ近くには王権
の武器庫があったと言われる忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあり、水陸の交通の
要所としても大和と東国を結ぶ重要な位置にあります。5世紀後半にこの朝倉宮にいた
雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇(当時は大王と言う名前で
呼ばれた)です。

白山神社
万葉集発祥の地!桜井市の白山神社
境内南東隅に万葉集がこの地から始まったことを讃える萬葉集発耀讃仰碑が建っています。
桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮の地であろうとの説は、『大和志』や『日本書紀通証』など
で、述べられている。が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない。保田興重郎氏は、この
白山神社付近をその候補地とし、雄略天皇の歌で始まる『万葉集』の発祥の地として、神社
境内に記念碑を建立したものである。・・・桜井市教育委員会の石碑より
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泊瀬朝倉宮跡(はせあさくらのみやあと)
朝倉宮跡は伝承としては3ヵ所あり、この脇本あたりは弥生時代古墳時代に至る遺物が出土
しており、古くから人々が生活していた地である。
第21代雄略天皇の宮跡である。万葉集には開巻第1の歌が有名である。脇本付近は近年発
掘調査があり建物遺構も出土している。
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地蔵堂・・・出雲の流れ地蔵(堂)という
「本尊は室町時代末の地蔵菩薩で、上半身だけを地上に出し、腰から下は地下に埋まって
いる風変わりな地蔵さんとして有名である。
文化8年1811年)の大洪水で、初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地まで流されてきた
のを当時の出雲村の人たちが助けてまつった、と語り継がれている。
本かわらぶき宝形造りの立派な堂前に建つ石燈籠に、天保11年(1840年)の年号が刻ま
れている。」・・・・(地蔵菩薩前の掲示板から)
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此処までは、
5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15
此処では、続きの十二柱神社~ の詳細についてを掲載致します。
十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)
神社境内には野見宿彌の顕彰碑や五輪塔が建てられている。また神社参道の石段を登っ
た所にある狛犬の台座には珍しい相撲取りの人形が見られ、片方4人ずつで大きな狛犬を
支えている。
神代の七神とその後の地神五神を祭神とする。垂仁天皇のころ、当麻蹴速と相撲を取り、
勝者となった野見宿彌の五輪塔が移されている。
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野見宿禰顕彰会の立て札
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代 の
出雲集落地)の磐座を拝んだ。明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ
登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり、食べたりした。・・・(出雲ムラ伝説)
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武烈天皇泊瀬列城宮伝承地
武烈天皇はヽ小泊瀬稚鷦鷯天皇とあり、仁徳天皇の大鷦鷯と対の名をもつ・これは、仁徳
の皇系が武烈天皇で絶えるため、仁徳を聖帝・武烈を暴君として描くのと同じ考え方であろ
う。武烈があまりの悪政非道な政治をしたから、仁徳の皇系は絶えたことを記紀では強調し
ているが、実際のところはわからない。壇場を柏瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、出
雲の地あたりかと考えられている。
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桜井市・出雲
長谷寺へと続く国道165号線に架かる歩道橋に、この場所が「桜井市出雲」であることが
示されています。出雲、この文字を見ると、自然と古代日本の姿が想い起されます。
出雲大社、上賀茂神社、それに大神神社。
それぞれの国における一之宮に、出雲の地名が残されています。なんとも不思議なつな
がりを感じます。昔の文献によれば、出雲国の大国主神の和魂を、大美和の三輪山に鎮
めたと記されています。
出雲といえば、出雲大社で有名で、一般的には今の島根県の東部を指す地名として知ら
れます。出雲は神様と関係の深い地名であることに間違いなく、桜井市出雲も、神の鎮座
する山として名高い三輪山の麓に位置しています。
出雲の地名由来ですが、島根県の出雲に端を発します。いわゆる国号地名です。
出雲の集落のほぼ真ん中に鎮座する十二柱神社。
昔は背の高い樹木や建物の柱に神様が降りて来ると信じられていました。神様の数を数
える単位として「柱」が使われます。
十二柱神社には、全部で12柱の神様が祀られています。
十二柱神社の境内には、大相撲にゆかりのある野見宿禰の五輪塔が建てられています。
野見宿禰の出自は出雲国です。山の辺の道の相撲神社に野見宿禰のお話が残されてい
ます、出雲と大和の文化交流・・・その歴史が垣間見えます。
桜井市出雲は出雲人形の生産地でもありました。
出雲人形とは、出雲の集落で昔から作られている素朴な人形で、そのルーツを埴輪に辿
ることができます。長谷寺や伊勢神宮へと続く伊勢街道の途上にあって、子どものお土産
として参詣客に人気があったようです。
出雲という地名は、三輪山南東のこの辺りだけではなく、他の近隣エリアにも残されており、
狭井神社で知られる狭井川の北方に、出雲屋敷という地名が伝承されています。さらに、
三輪山北西には、かつて出雲荘と呼ばれる荘園がありました。出雲荘は、現在の桜井市
大西・江包(えっつみ)の地に当たります。
大西地区北部には、今もなお”ヲナンジ”という子字名が残ります。このヲナンジですが、荘
園絵図には「大己貴(おおなむち)」と記されています。
大己貴といえば、大神神社の神様として有名な名前です。
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長谷寺へ向かう
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長谷寺
仁王門から本堂へ続く登廊が印象的。399段ある石段を登りながら、桜、牡丹、あじさい、
紅葉、寒牡丹など四季折々の花が楽しめる。本堂の舞台からは、門前町や与喜山の原生
林が一望できる。山号を「豊山」と称える。創建以来9度の罹災で焼失と復興を繰り返す。
現在の本堂は、西暦1650年に再建されたもので、平成16年10月に国宝に指定された。
真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末
寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよ三百万人といわれ、四季を通じ「花の寺」としての多くの
人々の信仰をあつめている。
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山、
院号を神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三
十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は
輪違い紋。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の
名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、
当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など
多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場
する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊
院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。
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創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長
谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の
丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことにつ
いては正史に見えず、伝承の域を出ない。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の
末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新
義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山
(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗
豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問
寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く
240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称するこ
ともある。
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法起院へ向かう
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法起院
徳道上人は斉明天皇の御宇二年(西暦六五六年)、播麿の国矢田部の里で誕生なさい
ました。その容貌は気品に満ち、眼は真澄鏡(ますみかがみ)のように美しく清らかで、
髪の毛は 梳(くしけず)れば滴(したた)るように黒く艶やかに光り、深くたたえられた優雅
さと聡明さに里人達は目を見張ったそうです。
成長されるにしたがって読書を好み、手に筆を持つことを無上の楽しみとし、神童との噂
の中で 連日精進をお重ねになりました。
しかし、突然起こった不幸は上人の父を奪い、そして数年の後には母も 不帰の客となっ
たのです。仏の道を極めることこそ人間に生まれた最高の道であり、 亡き父母の菩提を
弔うことが今の自分にとっては、真実の報恩であろうと大悟徹底された上人は、当時我
が国随一の大名僧であった大和長谷寺の道明大徳との間に師弟の契りをお結びになり
ました。 約十年間の修行の後、智道兼備の名僧となられた上人は、大和の長谷寺、鎌
倉の長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立されました。
その中でも大和の長谷寺では本尊大観音を御造立されました。
前記の養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大
王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるよう
に委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむな
く宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しにな
り、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。
本堂の左側には、「上人御廟十三重石塔」があり、上人が晩年当院の松の木の上から
法起菩薩と化し去ったといわれ、当院の名前もそこからつけられました。
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長谷寺駅
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mamu7010

 暑い中行った甲斐有りましたネ。
仏教伝来地なんて、非常に興味深いです。
結構自然も残ってるし、長谷寺の階段が良いです。
なかなかきょろきょろしながらは、ちょっと無理ですが、、、。
by mamu7010 (2019-05-16 07:46) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
このひは疲れました桜井~長谷寺迄ずーっと登り?
最後の長谷寺へののぼりと長谷寺から下って今度は
長谷寺駅への登りでクタクタになった、皆さん元気だわ・・・
by taharas (2019-05-17 00:00) 

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