3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-2
3月25日 3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-2
昼飲み会ハイキング 大阪11八尾市巡り
此の日は曇り空、知人・M吉さん・K場さん・M村さん・S藤さん・O村さんと6名で近鉄てくてく
マップ大阪11八尾市寺内町巡りの12kmコースをアレンジ&ショートカットツして約8.5kmを
歩き、13:13分に近鉄八尾駅から電車に乗り15時~昼飲み会に参加する為のハイキング。
此の日の私の万歩計は、19866歩で約11.9km歩いたことに・・・
コース 河内山本駅に10:15着で集合・スタート
河内山本駅(10:15)~山本八幡宮~玉串川~御野縣主(みのあがたぬし)神社 ~ 玉串川
~福万寺公園・移設された福栄橋~三十八神社~第二寝屋川~木村重成墓・公園 (昼食)
~八尾市埋蔵文化C~西郡天神社~楠根川緑地公園~近鉄八尾駅へショートカット 8.5㎞
志都美駅~香芝駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
近鉄下田駅~河内山本駅10:15着
山本八幡宮
誉田別尊(応神天皇)を祀る。近鉄河内山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の
南沿いに所在する、小ぢんまりとした神社である。
享保元年(1716年)、山本新田の開発者である山中庄兵衛正永と、本山弥右衛門重英
(加賀屋)の両人らが石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀され
た。当初は「山本八幡神社」という名称だった。その後、享保13年 (1728) 正月に加賀
屋から泉屋住友吉左衛門へ所有が変わった後には、住友家の尊崇と保護を受け近代ま
で至る。昭和15年(1940年)に住友住宅による山本新田での宅地分譲が終了し、212年
に渡る住友家の地主管理が終了する。その際に住友住宅より東南部分の土地を寄贈さ
れている。同年に玉串川沿いにあった池を埋めたて、社務所が新築される。
昭和31年(1956年)に旧橿原神宮の古材を用いて社殿が改築され、恩智神社の社家で
ある新海(にいみ)氏より専任の宮司を迎え入れている。この頃に旧山本新田住友会所
の建物の移築もあり境内が整備され、「山本八幡宮」と改称し現在に至っている。
※天台院(てんだいいん)・・・次回は是非見てみたい
大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。
山号は紫雲山。作家の今東光が住職を務めたと有るので探して見たが不明?
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂し
ていた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長
野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、
また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小
庵が天台院であるとされている。
昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃
の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほ
ど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。
現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建
てられた。
境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、
「智道の水」として知られている。・・・・・調べた結果はこうだった、次回は是非見たい?
玉串川(たまくしがわ)
玉串川は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大阪府八尾市二俣で長瀬川から
分流。八尾市の中央部を北上し、東大阪市玉串元町で第二寝屋川に合流する。川幅は
おおむね5 mほどで、川岸は石積みまたはブロックで護岸が整備されている。
高度経済成長期には上流の大和川や長瀬川と同様に水質が悪化していたが、流域の各
所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善
や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が
放流された。流域付近は、八尾市柏村の南部に田畑が広がり、近鉄大阪線河内山本駅
付近が商業地となっている以外はおおむね閑静な住宅街となっている。また、二俣付近と
柏村橋付近 - 五月橋交差点、山本橋 - 山本町北七丁目付近までの両岸に桜の木が植え
られている。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生
を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていった
ものである。例年、年3月下旬~4月初旬にかけて桜が満開となる。この桜並木は、「大阪
みどりの百選」にも選ばれている。
そめいよしのではない?
御野縣主(みのあがたぬし)神社
御野縣主神社は、大阪府八尾市にある神社。式内小社で、旧社格は村社。
旧河内国河内郡上之島村(八尾市上之島地区)の氏神。かつてこの地一帯を支配して
いた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神である。創建の年代は不詳で
あるが、延喜式神名帳に河内国若江郡の御野縣主神社二座と記載されていることから
平安時代以前にはあったとされる。明治5年(1872年)に村社に列せられた。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧大和川)の堤
防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。八尾市の保全樹林に指定
され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
玉串川へ戻る
玉串川
山本交番を左に
福万寺公園へ向かう
此処までは、
3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-25
此処では、続きの福万寺公園~ の詳細についてを掲載します。
福万寺公園・移設された福栄橋
元々恩智川に架っていた石橋(福栄橋)がトイレ横に移築されている
福栄橋
この石橋は福栄橋とよばれ、大坂の玉造から若江、福万寺をへて大和の竜田を結ぶ
十三街道の恩智川を渡るために架かっていました。かって、この橋があった西側には
寛政12年(1800)に福万寺の人々が建てた橋の供養碑が残されています。 碑には、
大雨による洪水で橋が流失したので、新しく再建したことが記されています。 橋に感
謝して建てられた供養碑としては市内で唯一のものです。 ここに保存されている石
橋は、明治9年4月(1876)に造られたものですが、昭和48年(1973)の恩智川改修
工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高欄部分が残されています。
三十八神社(みそやじんじゃ)
三は御祭神(天照皇大神・八幡大神・春日大神)を表し、十八は、神々に対する敬語と伝え
られている。この土地に、当神社が建立された年代は明らかではないが、正平年中(北朝
の文和年間1352-55)佐々木守綱八世の子孫、佐々木二郎盛恵の居城、福万寺城址と記
されている。
境内入口に”条里割遺構(福万寺)”の石碑
大化改新(645)のさいに行われた耕地の割りかたである。耕地を東西・南北にそれぞれ六
町四方に区画し、一辺を「条」、他の辺を「里」と名づけ、それを三十六等分し、その一つを
一坪とした。一坪は一町歩にあたり、坪の数え方は、千鳥式と平行式があるが、当地域で
は千鳥式である。この地福万寺や上ノ島には、今も味の一の坪、二の坪という坪名が
残っていて、古い条里割遺構の残る地として名高い。・・・八尾市教育委員会
第二寝屋川
※山口重信碑(八尾市幸町)・・・今回はパスした
元和元年(1615)の大坂夏の陣にこの場所で、木村重成の槍に突かれて戦死した徳川方
武将山口重信の碑。三十三回忌にあたり、弟弘隆が建碑したもので、珍しい亀趺(きふ)の
上に建てられ、碑は西面し表に林 羅山の撰文が刻まれているが、残念ながら破損が・・・
木村重成の墓・木村公園 (昼食)
木村重成の墓
大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、
昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。
この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とし
た安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史
跡として指定されている。
重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれている。左隣りは山口左馬介(重成
の妹婿)の墓。山口左馬介も重成と同日同地で戦死した。
墓石を削って飲むと、勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸
くなっている。また墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮
気に効があると伝えられている。
木村重成は大坂冬・夏の陣で活躍した大坂方の武将。関白豊臣秀次の臣木村常陸介
重茲の子とも言われる。豊臣秀頼に仕え、1614年(慶長19年)大坂冬の陣では11
月26日の今福・鴫野の戦いで功を上げ、1615年(元和元年)の夏の陣では5月6日
の河内若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝の軍と相まみえ、奮戦むなしく戦死した。
若干23歳であった。重成はこの若江戦いに臨んで、兜に香をたきしめていたというこ
とで、徳川家康を感動させたとの話が伝わっている。
木村公園出昼食を済ませて
八尾市埋蔵文化財調査C(トイレ休憩)へ
展示品見学
展示品見学&小休止後西郡天神社へ向う
西郡天神社
西郡天神社(にしこおりてんじんじゃ)は、大阪府八尾市泉町にある神社。近代社格では
村社。前後区時代の天文年間(1532年-1555年)の創建と伝わるが、それよりも以前と
の説もある。当地は、錦織連の居住地だった。
錦織連は百済より渡来した織物技術者で、宮中に仕えた。当社境内の手水鉢は、錦織
氏が創立した西郡寺の塔刹柱礎石だった。
つまり当社は寺院跡(錦織廃寺)で、八間堂の字名が残る。かっての寺領は広大で北は
300m先の恩智川まであった。また本堂、金堂、三重の塔などを持つ大寺院だった。
この塔心礎は、高さ60センチ、縦120センチ、横160センチの自然石の中央に、直径67
センチ、深さ37センチの柱穴があり、その中央に直径21センチ、深さ18センチの舎利孔
がある。 白鳳時代に属するものとされ、また、この境内から鎌倉時代の石灯篭の台座も
出土した。現在は市の史跡に指定されている。
南北朝時代には、楠木正成によって建立された幻の河内寺の一つ錦織寺となったが、
南朝の敗退により焼き討ちにされたという。その跡地に、自然発生的に神社が建立され、
錦織家の祖神が祭祀されたのが当社だという。
御祭神は、本殿中央が主祭神の須佐之男大神、脇神として、本殿右座が天穂日命、本殿
左座が菅原道真。当社は、現在は道真が祀られているとはいえ、もとは天神・天満宮では
なく、古い形態の天神社である。
境内社に小宮として、拝殿手前右側に南宮(大国主大神)と、拝殿手前左側に東宮(少彦
名命)がある。 境内には、市の保全樹木に指定されているむくのきがある。
※錦織廃寺
かっての寺領は広大で 北は恩智川まで(300m)有ったとゆうまた本堂、金堂、三重の塔
などを持つ大寺院であった。 錦織連は百済より渡来した織物技術者である。
※楠根川緑地公園?・・・今回は時間がおしてて辿り着けずパス
近鉄八尾駅で13:13発に乗る
鶴橋駅でJR環状線に乗り換え天王寺駅へ
天王寺駅~キューズモール → 湯処・あべの橋 →14:30
キューズモール
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
銭湯を出て待ち合わせ場所へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!是非是非! ほんまでっせ!
天王寺駅ビル4F 居酒屋へ
3月22日(金)の昼飲み会の参加者は15名
集合場所 JR天王寺駅551蓬莱前14:50 Or4F甘太郎前 14:55 参加者は下記
H本・A座・Y田・T石・K池・K西・N西・N山・S藤・M吉・M越・R得・K場・M井と私で15名
最長12年振りに会うメンバーもいて非常に盛り上がり楽しい宴会&情報交換会に・・・
昼飲み会ハイキング 大阪11八尾市巡り
此の日は曇り空、知人・M吉さん・K場さん・M村さん・S藤さん・O村さんと6名で近鉄てくてく
マップ大阪11八尾市寺内町巡りの12kmコースをアレンジ&ショートカットツして約8.5kmを
歩き、13:13分に近鉄八尾駅から電車に乗り15時~昼飲み会に参加する為のハイキング。
此の日の私の万歩計は、19866歩で約11.9km歩いたことに・・・
コース 河内山本駅に10:15着で集合・スタート
河内山本駅(10:15)~山本八幡宮~玉串川~御野縣主(みのあがたぬし)神社 ~ 玉串川
~福万寺公園・移設された福栄橋~三十八神社~第二寝屋川~木村重成墓・公園 (昼食)
~八尾市埋蔵文化C~西郡天神社~楠根川緑地公園~近鉄八尾駅へショートカット 8.5㎞
志都美駅~香芝駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
近鉄下田駅~河内山本駅10:15着
山本八幡宮
誉田別尊(応神天皇)を祀る。近鉄河内山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の
南沿いに所在する、小ぢんまりとした神社である。
享保元年(1716年)、山本新田の開発者である山中庄兵衛正永と、本山弥右衛門重英
(加賀屋)の両人らが石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀され
た。当初は「山本八幡神社」という名称だった。その後、享保13年 (1728) 正月に加賀
屋から泉屋住友吉左衛門へ所有が変わった後には、住友家の尊崇と保護を受け近代ま
で至る。昭和15年(1940年)に住友住宅による山本新田での宅地分譲が終了し、212年
に渡る住友家の地主管理が終了する。その際に住友住宅より東南部分の土地を寄贈さ
れている。同年に玉串川沿いにあった池を埋めたて、社務所が新築される。
昭和31年(1956年)に旧橿原神宮の古材を用いて社殿が改築され、恩智神社の社家で
ある新海(にいみ)氏より専任の宮司を迎え入れている。この頃に旧山本新田住友会所
の建物の移築もあり境内が整備され、「山本八幡宮」と改称し現在に至っている。
※天台院(てんだいいん)・・・次回は是非見てみたい
大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。
山号は紫雲山。作家の今東光が住職を務めたと有るので探して見たが不明?
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂し
ていた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長
野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、
また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小
庵が天台院であるとされている。
昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃
の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほ
ど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。
現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建
てられた。
境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、
「智道の水」として知られている。・・・・・調べた結果はこうだった、次回は是非見たい?
玉串川(たまくしがわ)
玉串川は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大阪府八尾市二俣で長瀬川から
分流。八尾市の中央部を北上し、東大阪市玉串元町で第二寝屋川に合流する。川幅は
おおむね5 mほどで、川岸は石積みまたはブロックで護岸が整備されている。
高度経済成長期には上流の大和川や長瀬川と同様に水質が悪化していたが、流域の各
所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善
や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が
放流された。流域付近は、八尾市柏村の南部に田畑が広がり、近鉄大阪線河内山本駅
付近が商業地となっている以外はおおむね閑静な住宅街となっている。また、二俣付近と
柏村橋付近 - 五月橋交差点、山本橋 - 山本町北七丁目付近までの両岸に桜の木が植え
られている。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生
を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていった
ものである。例年、年3月下旬~4月初旬にかけて桜が満開となる。この桜並木は、「大阪
みどりの百選」にも選ばれている。
そめいよしのではない?
御野縣主(みのあがたぬし)神社
御野縣主神社は、大阪府八尾市にある神社。式内小社で、旧社格は村社。
旧河内国河内郡上之島村(八尾市上之島地区)の氏神。かつてこの地一帯を支配して
いた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神である。創建の年代は不詳で
あるが、延喜式神名帳に河内国若江郡の御野縣主神社二座と記載されていることから
平安時代以前にはあったとされる。明治5年(1872年)に村社に列せられた。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧大和川)の堤
防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。八尾市の保全樹林に指定
され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
玉串川へ戻る
玉串川
山本交番を左に
福万寺公園へ向かう
此処までは、
3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-25
此処では、続きの福万寺公園~ の詳細についてを掲載します。
福万寺公園・移設された福栄橋
元々恩智川に架っていた石橋(福栄橋)がトイレ横に移築されている
福栄橋
この石橋は福栄橋とよばれ、大坂の玉造から若江、福万寺をへて大和の竜田を結ぶ
十三街道の恩智川を渡るために架かっていました。かって、この橋があった西側には
寛政12年(1800)に福万寺の人々が建てた橋の供養碑が残されています。 碑には、
大雨による洪水で橋が流失したので、新しく再建したことが記されています。 橋に感
謝して建てられた供養碑としては市内で唯一のものです。 ここに保存されている石
橋は、明治9年4月(1876)に造られたものですが、昭和48年(1973)の恩智川改修
工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高欄部分が残されています。
三十八神社(みそやじんじゃ)
三は御祭神(天照皇大神・八幡大神・春日大神)を表し、十八は、神々に対する敬語と伝え
られている。この土地に、当神社が建立された年代は明らかではないが、正平年中(北朝
の文和年間1352-55)佐々木守綱八世の子孫、佐々木二郎盛恵の居城、福万寺城址と記
されている。
境内入口に”条里割遺構(福万寺)”の石碑
大化改新(645)のさいに行われた耕地の割りかたである。耕地を東西・南北にそれぞれ六
町四方に区画し、一辺を「条」、他の辺を「里」と名づけ、それを三十六等分し、その一つを
一坪とした。一坪は一町歩にあたり、坪の数え方は、千鳥式と平行式があるが、当地域で
は千鳥式である。この地福万寺や上ノ島には、今も味の一の坪、二の坪という坪名が
残っていて、古い条里割遺構の残る地として名高い。・・・八尾市教育委員会
第二寝屋川
※山口重信碑(八尾市幸町)・・・今回はパスした
元和元年(1615)の大坂夏の陣にこの場所で、木村重成の槍に突かれて戦死した徳川方
武将山口重信の碑。三十三回忌にあたり、弟弘隆が建碑したもので、珍しい亀趺(きふ)の
上に建てられ、碑は西面し表に林 羅山の撰文が刻まれているが、残念ながら破損が・・・
木村重成の墓・木村公園 (昼食)
木村重成の墓
大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、
昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。
この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とし
た安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史
跡として指定されている。
重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれている。左隣りは山口左馬介(重成
の妹婿)の墓。山口左馬介も重成と同日同地で戦死した。
墓石を削って飲むと、勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸
くなっている。また墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮
気に効があると伝えられている。
木村重成は大坂冬・夏の陣で活躍した大坂方の武将。関白豊臣秀次の臣木村常陸介
重茲の子とも言われる。豊臣秀頼に仕え、1614年(慶長19年)大坂冬の陣では11
月26日の今福・鴫野の戦いで功を上げ、1615年(元和元年)の夏の陣では5月6日
の河内若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝の軍と相まみえ、奮戦むなしく戦死した。
若干23歳であった。重成はこの若江戦いに臨んで、兜に香をたきしめていたというこ
とで、徳川家康を感動させたとの話が伝わっている。
木村公園出昼食を済ませて
八尾市埋蔵文化財調査C(トイレ休憩)へ
展示品見学
展示品見学&小休止後西郡天神社へ向う
西郡天神社
西郡天神社(にしこおりてんじんじゃ)は、大阪府八尾市泉町にある神社。近代社格では
村社。前後区時代の天文年間(1532年-1555年)の創建と伝わるが、それよりも以前と
の説もある。当地は、錦織連の居住地だった。
錦織連は百済より渡来した織物技術者で、宮中に仕えた。当社境内の手水鉢は、錦織
氏が創立した西郡寺の塔刹柱礎石だった。
つまり当社は寺院跡(錦織廃寺)で、八間堂の字名が残る。かっての寺領は広大で北は
300m先の恩智川まであった。また本堂、金堂、三重の塔などを持つ大寺院だった。
この塔心礎は、高さ60センチ、縦120センチ、横160センチの自然石の中央に、直径67
センチ、深さ37センチの柱穴があり、その中央に直径21センチ、深さ18センチの舎利孔
がある。 白鳳時代に属するものとされ、また、この境内から鎌倉時代の石灯篭の台座も
出土した。現在は市の史跡に指定されている。
南北朝時代には、楠木正成によって建立された幻の河内寺の一つ錦織寺となったが、
南朝の敗退により焼き討ちにされたという。その跡地に、自然発生的に神社が建立され、
錦織家の祖神が祭祀されたのが当社だという。
御祭神は、本殿中央が主祭神の須佐之男大神、脇神として、本殿右座が天穂日命、本殿
左座が菅原道真。当社は、現在は道真が祀られているとはいえ、もとは天神・天満宮では
なく、古い形態の天神社である。
境内社に小宮として、拝殿手前右側に南宮(大国主大神)と、拝殿手前左側に東宮(少彦
名命)がある。 境内には、市の保全樹木に指定されているむくのきがある。
※錦織廃寺
かっての寺領は広大で 北は恩智川まで(300m)有ったとゆうまた本堂、金堂、三重の塔
などを持つ大寺院であった。 錦織連は百済より渡来した織物技術者である。
※楠根川緑地公園?・・・今回は時間がおしてて辿り着けずパス
近鉄八尾駅で13:13発に乗る
鶴橋駅でJR環状線に乗り換え天王寺駅へ
天王寺駅~キューズモール → 湯処・あべの橋 →14:30
キューズモール
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
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銭湯を出て待ち合わせ場所へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
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天王寺駅ビル4F 居酒屋へ
3月22日(金)の昼飲み会の参加者は15名
集合場所 JR天王寺駅551蓬莱前14:50 Or4F甘太郎前 14:55 参加者は下記
H本・A座・Y田・T石・K池・K西・N西・N山・S藤・M吉・M越・R得・K場・M井と私で15名
最長12年振りに会うメンバーもいて非常に盛り上がり楽しい宴会&情報交換会に・・・
2019-03-25 18:46
nice!(23)
コメント(6)
今東光さんですか?
懐かしいです、モートルの貞?。
玉串川・西郡天神社・錦織廃寺・楠根川緑地公園、
又トライしたいコースです。
by mamu7010 (2019-03-27 20:40)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
玉串川、来週は桜満開でしょうね?時間の有る時又行きましょう
by taharas (2019-03-27 23:52)
お散歩仲間とは大分歩きましたが、
8キロの道中には観るところが沢山有って楽しめましたね。
by 旅爺さん (2019-03-28 09:27)
旅爺さんさん
コメント有難う御座います!(^^)!
昼飲み会ハイキングはハイキングの後の銭湯と居酒屋での
飲み会がメインになりハイキングの道中がどうしても忙しく?
せわしくなりがちですが、何故か中々活気が有りますね・・・
by taharas (2019-03-28 17:00)
有難う御座
by 카지노사이트 (2020-11-16 13:47)
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