2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-2
3月4日 2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-2
南河内歴史ウオーク 歩程13km
此の日は、知人M村さんと二人で参加した、参加者784名だったかな?M村さんとは
当初からわかって他事だが、午後から別の用事が有るとの事で12時半に分かれて、
此の日の私の万歩計は、27204歩で約16.3km歩いたことに・・・
コース 華やいで大阪・南河内観光キャンペーン協議会主催 布忍神社受付
布忍駅~10分~大林寺~布忍神社受付(9時半~10時)~西除川遊歩道~王仁の聖
堂址~竹内街道(大師堂)~竹内街道・緑の一里塚~竹内街道・緑の一里塚~丹治は
やプラザ(昼食)~八王神神社~高燈籠(竹内街道モニュメント)~仁賢天皇陵古墳~
峰塚公園・峯ケ塚古墳~清寧天皇陵古墳~白鳥陵古墳~向墓山古墳~墓山古墳~
誉田八幡宮~東高野街道~応神天皇陵古墳~大鳥塚古墳~古室山古墳~仲姫命陵
古墳~小室八幡神社(ゴ―ル・解散)~鍋塚古墳~土師ノ里駅
布忍駅~10分~大林寺
大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
布忍神社受付
長蛇の列で受付迄随分待たされた
※布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・
西除川遊歩道
西除川遊歩道は松原市西部の西除川に沿って、北は天美西公園から南は松原市民運動
広場までを結ぶ約4kmの遊歩道です。四季折々の花や緑を眺めながら、ウォーキング等
を楽しめます。今回は、布忍神社~松原市民運動広場迄の約2.5kmを歩いた
王仁の聖堂址
出岡弁財天 同社は元禄5年(1692)の「寺社改帳」に、慶長年間の焼失後、寛永年間に再
建された。
聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のこ
とですので、王仁が聖堂を建てた事実は不確かです。ししかし、ここに聖堂があったと江戸
時代以後、伝えられてきた背景には、当地の人々が河内に教育者王仁を顕彰し、学問を広
めたいという願望があったからではないでしょうか。
清堂池から西南一帯は清堂遺跡とよばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。市
内でも、最も古くから開けた土地柄なのです。
※学者の王仁
『日本書紀』によると、応神が大王のころ、朝鮮半島の百済から学者の王仁が大和王権に
招かれました。王仁は応神の太子である菟道稚郎子の師となって、太子に典籍を教えたと
あります(応神16年条)。一方、『古事記』では、王仁は和邇吉師と記され、孔子の『論語』
十巻、『千字文』一巻を貢進したと記されています(応神段)。
王仁の渡来は4世紀後半ごろと思われますが、『日本書紀』『古事記』とも王仁は西文氏の
祖と伝えています。西文氏は5~6世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として
活躍しました。現在の羽曳野市古市に居住し、いまも法灯を続ける西琳寺(古市2丁目)を
氏寺としていました。
こうしたことから、江戸時代以後、儒学が盛んになるにつれ、王仁はわが国学問の祖とし
てあがめられるようになりました。とくに、大阪は王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪に
は王仁墓が建てられています。また、大阪市北区大淀北には王仁を祭神とする八坂神社
が鎮座していましたし、高石市の高石神社も元来は王仁を祀っていました。
竹内街道(大師堂)
竹内街道
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道
(竹内街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝
えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、
場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。
それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
大師堂
空海を祀る大師堂(岡5丁目)が建っています。もともとは増池の東畔にありましたが、
池の半分は埋められ、岡公園となっています。
大師堂の創建は未詳ですが、高野山大円院より招請したという空海坐像・不動明王立
像・板彫千手十一面観音立像が安置されています。密教様式の厳しい表情が特徴で
す。境内には、室町時代の阿弥陀如来坐像2体も祀られています。
大円院と関わりがあるのは、大師堂に長く住持した神田覚栄師が大円院で修行をされ
たからです。覚栄師は、幕末の嘉永5年(1852)生まれ。昭和18年(1943)に亡くなるま
で、地域の大師信仰を支えてきました。
戦後以降、大師堂は岡の観音講によって守られています。
竹内街道・緑の一里塚・・・第1号(松原市)
2013年3月29日(金曜日)に、「緑の一里塚」の第1号を大阪府、松原市、(財)国際花
と緑の博覧会記念協会及び地元自治会が協働で、松原市立部に設置しました。
丹治はやプラザへ向かう
竹内街道・緑の一里塚・・・第6号(羽曳野市野地区)
2013年11月24日(日曜日)に、「緑の一里塚」の第6号を大阪府、羽曳野市(公財)国際
花と緑の博覧会記念協会、北野木材、地元町会が協働で、羽曳野市野に設置しました。
丹治はやプラザ(昼食)
八王神神社
仁賢天皇陵古墳へ向かう
高燈籠(竹内街道モニュメント)
仁賢天皇陵古墳
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇
(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・
大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または
大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)
に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝
郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟
共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのお
びと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族
の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮
中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が
執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、
飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位
3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)
舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉
士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は
国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、
『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后
とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ
正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后
となった事で繰り返されている。
峰塚公園へ向かう
峰塚公園・峯ケ塚古墳
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目に存在する古墳時代後期
の前方後円墳。古市古墳群の南西部に位置する。国の史跡に指定されている。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96m、前方部の幅74.4m・高さ10.5m、後円部は直径56m・高さ
9mの前方後円墳である。
江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、
允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。
墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほか
は、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗
掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄
鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、
装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土し
た埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
此処までは、
2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-04
此処では、続きの清寧天皇陵古墳~ についての詳細を掲載します。
清寧天皇陵古墳
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちの
さかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白
髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が
祀られている。
※清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天
皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの
すめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄
略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正
月に即位。 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子で
ある億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報
を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘
計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2
王の発見は天皇崩御後の出来事としている。
白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
西馬塚古墳
西馬塚古墳は、墳長45m、高さ9.4mの方墳で、五世紀後半に築造されたと考えら
れています。後世に削られているため墳丘は原型をとどめていません。
向墓山古墳へ向かう
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
誉田八幡宮へ向かう
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
応神天皇陵古墳へ向かう
東高野街道(ひがしこうやかいどう)・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
応神天皇陵古墳へ向かう
応神天皇陵古墳(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
古室山古墳(こむろやまこふん)
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
小室八幡神社(ゴ―ル・解散)
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。
鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
土師ノ里駅
南河内歴史ウオーク 歩程13km
此の日は、知人M村さんと二人で参加した、参加者784名だったかな?M村さんとは
当初からわかって他事だが、午後から別の用事が有るとの事で12時半に分かれて、
此の日の私の万歩計は、27204歩で約16.3km歩いたことに・・・
コース 華やいで大阪・南河内観光キャンペーン協議会主催 布忍神社受付
布忍駅~10分~大林寺~布忍神社受付(9時半~10時)~西除川遊歩道~王仁の聖
堂址~竹内街道(大師堂)~竹内街道・緑の一里塚~竹内街道・緑の一里塚~丹治は
やプラザ(昼食)~八王神神社~高燈籠(竹内街道モニュメント)~仁賢天皇陵古墳~
峰塚公園・峯ケ塚古墳~清寧天皇陵古墳~白鳥陵古墳~向墓山古墳~墓山古墳~
誉田八幡宮~東高野街道~応神天皇陵古墳~大鳥塚古墳~古室山古墳~仲姫命陵
古墳~小室八幡神社(ゴ―ル・解散)~鍋塚古墳~土師ノ里駅
布忍駅~10分~大林寺
大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
布忍神社受付
長蛇の列で受付迄随分待たされた
※布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・
西除川遊歩道
西除川遊歩道は松原市西部の西除川に沿って、北は天美西公園から南は松原市民運動
広場までを結ぶ約4kmの遊歩道です。四季折々の花や緑を眺めながら、ウォーキング等
を楽しめます。今回は、布忍神社~松原市民運動広場迄の約2.5kmを歩いた
王仁の聖堂址
出岡弁財天 同社は元禄5年(1692)の「寺社改帳」に、慶長年間の焼失後、寛永年間に再
建された。
聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のこ
とですので、王仁が聖堂を建てた事実は不確かです。ししかし、ここに聖堂があったと江戸
時代以後、伝えられてきた背景には、当地の人々が河内に教育者王仁を顕彰し、学問を広
めたいという願望があったからではないでしょうか。
清堂池から西南一帯は清堂遺跡とよばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。市
内でも、最も古くから開けた土地柄なのです。
※学者の王仁
『日本書紀』によると、応神が大王のころ、朝鮮半島の百済から学者の王仁が大和王権に
招かれました。王仁は応神の太子である菟道稚郎子の師となって、太子に典籍を教えたと
あります(応神16年条)。一方、『古事記』では、王仁は和邇吉師と記され、孔子の『論語』
十巻、『千字文』一巻を貢進したと記されています(応神段)。
王仁の渡来は4世紀後半ごろと思われますが、『日本書紀』『古事記』とも王仁は西文氏の
祖と伝えています。西文氏は5~6世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として
活躍しました。現在の羽曳野市古市に居住し、いまも法灯を続ける西琳寺(古市2丁目)を
氏寺としていました。
こうしたことから、江戸時代以後、儒学が盛んになるにつれ、王仁はわが国学問の祖とし
てあがめられるようになりました。とくに、大阪は王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪に
は王仁墓が建てられています。また、大阪市北区大淀北には王仁を祭神とする八坂神社
が鎮座していましたし、高石市の高石神社も元来は王仁を祀っていました。
竹内街道(大師堂)
竹内街道
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道
(竹内街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝
えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、
場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。
それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
大師堂
空海を祀る大師堂(岡5丁目)が建っています。もともとは増池の東畔にありましたが、
池の半分は埋められ、岡公園となっています。
大師堂の創建は未詳ですが、高野山大円院より招請したという空海坐像・不動明王立
像・板彫千手十一面観音立像が安置されています。密教様式の厳しい表情が特徴で
す。境内には、室町時代の阿弥陀如来坐像2体も祀られています。
大円院と関わりがあるのは、大師堂に長く住持した神田覚栄師が大円院で修行をされ
たからです。覚栄師は、幕末の嘉永5年(1852)生まれ。昭和18年(1943)に亡くなるま
で、地域の大師信仰を支えてきました。
戦後以降、大師堂は岡の観音講によって守られています。
竹内街道・緑の一里塚・・・第1号(松原市)
2013年3月29日(金曜日)に、「緑の一里塚」の第1号を大阪府、松原市、(財)国際花
と緑の博覧会記念協会及び地元自治会が協働で、松原市立部に設置しました。
丹治はやプラザへ向かう
竹内街道・緑の一里塚・・・第6号(羽曳野市野地区)
2013年11月24日(日曜日)に、「緑の一里塚」の第6号を大阪府、羽曳野市(公財)国際
花と緑の博覧会記念協会、北野木材、地元町会が協働で、羽曳野市野に設置しました。
丹治はやプラザ(昼食)
八王神神社
仁賢天皇陵古墳へ向かう
高燈籠(竹内街道モニュメント)
仁賢天皇陵古墳
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇
(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・
大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または
大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)
に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝
郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟
共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのお
びと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族
の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮
中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が
執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、
飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位
3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)
舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉
士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は
国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、
『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后
とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ
正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后
となった事で繰り返されている。
峰塚公園へ向かう
峰塚公園・峯ケ塚古墳
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目に存在する古墳時代後期
の前方後円墳。古市古墳群の南西部に位置する。国の史跡に指定されている。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96m、前方部の幅74.4m・高さ10.5m、後円部は直径56m・高さ
9mの前方後円墳である。
江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、
允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。
墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほか
は、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗
掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄
鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、
装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土し
た埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
此処までは、
2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-04
此処では、続きの清寧天皇陵古墳~ についての詳細を掲載します。
清寧天皇陵古墳
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちの
さかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白
髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が
祀られている。
※清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天
皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの
すめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄
略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正
月に即位。 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子で
ある億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報
を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘
計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2
王の発見は天皇崩御後の出来事としている。
白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
西馬塚古墳
西馬塚古墳は、墳長45m、高さ9.4mの方墳で、五世紀後半に築造されたと考えら
れています。後世に削られているため墳丘は原型をとどめていません。
向墓山古墳へ向かう
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
誉田八幡宮へ向かう
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
応神天皇陵古墳へ向かう
東高野街道(ひがしこうやかいどう)・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
応神天皇陵古墳へ向かう
応神天皇陵古墳(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
古室山古墳(こむろやまこふん)
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
小室八幡神社(ゴ―ル・解散)
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。
鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
土師ノ里駅
2019-03-04 01:13
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コメント(2)
ゴ―ルの小室八幡神社枝垂れ?紅白梅、観たかったです。
王仁の聖堂址~竹内街道(大師堂)、唸ります。
絶好のハイキング日和、ホント良かったです。
by mamu7010 (2019-03-05 20:19)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
今回は初めての訪れる場所がかなり多かったので私にも
有意義なハイキング、途中迄でも同行頂き有難う御座いました。
by taharas (2019-03-07 00:34)