1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-2
2月1日 1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-2
歩こう会3月のコース下見
此の日は、3月度歩こう会のコース下見、下見で歩いてみて良かった、とても歩けるコース
では無かった、上り坂がしんどくてしんどくてギブアップ、M越さん・Y本さん・M吉さん
・K場さんと5名で、此の日の私の万歩計は、27416歩で約20.2kmあるいた事に・・・
此の日のコースは、南海電車の推奨ハイキングコースのパンフレットを貰ってコース通
りに・・・
河内長野駅(集合・スタート)~長野公園~河合寺~丸山展望台~観心寺~延命寺~千早
口駅(ゴール)
5名で歩いてみて、3月の本番のコースとしては、河内長野駅~観心寺へバスを使用、観心
寺境内散策(霊宝館見学・星塚巡り・大楠公首塚・昼食・後村上天皇陵)(解散)~※河
内長野駅。
※観心寺~河内長野駅へは、歩くコースとバス使用コースに分かれて・・・
志都美駅
柏原駅で近鉄線へ乗り換え
河内長野駅
落合橋を渡る
長野公園
河合寺へ向かう
河合寺(かわいでら)
河合寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派の寺院。山号は宝珠峰山。本尊は千手
観音菩薩。河合寺縁起によれば、当時、この地の山々に五色の雲が何日にも渡り棚引いて
いた。天皇の命により蘇我入鹿が調査すると、光が差している松の大木から千手観音菩薩
の像があらわれたという。驚いた天皇の命により皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が当寺
を創建したといわれる。 承平(西暦931~937年)の頃、河南の三大名刹の一つとして知
られていたが、その後、足利氏に攻め入られ大伽藍を焼失したり、織田信長による寺領の
没収などにより衰退した。河合寺の裏山一帯は、大阪府立の府営長野公園の一部となって
おり、山一面に広がる約500本の桜と山腹に約5000株のアジサイが咲く自然公園となって
おり、特に桜は大阪みどりの百選に選定されている。 奥の院の横にあるあじさい園にも展
望台があるが、さらに450m登った所にも展望台がある。
笠松大明神
丸山展望台へ向かう
丸山展望台
観心寺へ向かう
もうすぐ観心寺、気温5度・・・
観心寺(かんしんじ)
観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡
本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十
三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとさ
れる。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。
これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では
観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、
「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ない
が、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。
また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから奈良時代草創説も
あながち否定できない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁
起資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営
を始めている(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年
(836年)には石川郡東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期
には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。
正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。
また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の
一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政
の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたた
め、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届け
られ首塚に祀られている。
楠木正成ゆかりの寺として知られる『観心寺』の山門前
山門をくぐってすぐに「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」があります。
後村上天皇は、南北朝時代の南朝第2代天皇で、約10ヶ月の間、日本の政治をここで
執行されました。
中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成の学問所で8歳~15歳までここで勉学に励みました。
金堂は国宝です。
建掛搭は重要文化財です。
楠木正成は建武新政の成功を祈願して三重搭を計画しましたが、神戸湊川で討死した為
初層のまま未完成で現在に至っています。
弁天堂
修行大師
天皇陵
金堂の右奥、長い石段(256段)を上がると、第九十七代後村上天皇の御陵があります。
住吉大社で没後、当山に御陵が作られました。
素晴らしい青空、天皇陵を下る
「楠木正成首塚」
討死後、足利尊氏の命令によりその首が当寺に送り届けられ、ここに祀られました。
此処までは、
1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-01
此処では、続きの霊宝館~ の詳細についてを掲載致します。
霊宝館
10体の重要文化財の仏様が展示保管されています。他にも楠木正成ゆかりの重文が
保管されています。見応え有りました。
星塚巡り
北斗七星が祀られています。日本ではここ『観心寺』だけだそうです。
弘法大師が厄除けの為に祀られたもので、一巡する事でその年の厄が払われると
云われています。(一巡は約10分です)
観心寺を後に延命寺へ向かう
延命寺へ向かう、まだまだ坂道を上る
延命寺(えんめいじ)
延命寺とは大阪府河内長野市の真言宗御室派の寺院。山号は薬樹山。
弘仁年間(810年 – 824年)、空海が地蔵の石仏を刻んで本尊としたのが当寺の始まりと
される。寛永16年(1639年)に、この地に生まれた浄厳が伽羅山延命寺に寺号を改め中
興する。延宝5年(1677年)、薬樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に改めら
れた。山号の由来はこの地に薬草が多く生えていたことからとされる。紅葉の名刹とし
て有名で大阪みどりの百選に選ばれている。樹齢1000年とも言われている巨大なカエデ
(もみじ)の老木は「夕照もみじ」といい大阪府天然記念物に指定されている。また、
すぐ近くには長野公園・延命寺地区がある。
延命寺の石碑。
江戸時代の高僧、浄厳(じょうごん)が延宝5年(1677)に創建したといわれて
います。
延命寺の夕照もみじ
昭和45年2月20日に大阪府指定天然記念物に指定されています。
延命寺を後に千早口駅へ向かう
千早口駅へ向かう
美加の台
千早口駅 六文銭を描いた電車が来た・・・
歩こう会3月のコース下見
此の日は、3月度歩こう会のコース下見、下見で歩いてみて良かった、とても歩けるコース
では無かった、上り坂がしんどくてしんどくてギブアップ、M越さん・Y本さん・M吉さん
・K場さんと5名で、此の日の私の万歩計は、27416歩で約20.2kmあるいた事に・・・
此の日のコースは、南海電車の推奨ハイキングコースのパンフレットを貰ってコース通
りに・・・
河内長野駅(集合・スタート)~長野公園~河合寺~丸山展望台~観心寺~延命寺~千早
口駅(ゴール)
5名で歩いてみて、3月の本番のコースとしては、河内長野駅~観心寺へバスを使用、観心
寺境内散策(霊宝館見学・星塚巡り・大楠公首塚・昼食・後村上天皇陵)(解散)~※河
内長野駅。
※観心寺~河内長野駅へは、歩くコースとバス使用コースに分かれて・・・
志都美駅
柏原駅で近鉄線へ乗り換え
河内長野駅
落合橋を渡る
長野公園
河合寺へ向かう
河合寺(かわいでら)
河合寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派の寺院。山号は宝珠峰山。本尊は千手
観音菩薩。河合寺縁起によれば、当時、この地の山々に五色の雲が何日にも渡り棚引いて
いた。天皇の命により蘇我入鹿が調査すると、光が差している松の大木から千手観音菩薩
の像があらわれたという。驚いた天皇の命により皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が当寺
を創建したといわれる。 承平(西暦931~937年)の頃、河南の三大名刹の一つとして知
られていたが、その後、足利氏に攻め入られ大伽藍を焼失したり、織田信長による寺領の
没収などにより衰退した。河合寺の裏山一帯は、大阪府立の府営長野公園の一部となって
おり、山一面に広がる約500本の桜と山腹に約5000株のアジサイが咲く自然公園となって
おり、特に桜は大阪みどりの百選に選定されている。 奥の院の横にあるあじさい園にも展
望台があるが、さらに450m登った所にも展望台がある。
笠松大明神
丸山展望台へ向かう
丸山展望台
観心寺へ向かう
もうすぐ観心寺、気温5度・・・
観心寺(かんしんじ)
観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡
本山である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十
三番。奥河内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとさ
れる。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。
これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では
観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、
「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ない
が、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。
また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから奈良時代草創説も
あながち否定できない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁
起資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営
を始めている(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年
(836年)には石川郡東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期
には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。
正平14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。
また、境内には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の
一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政
の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたた
め、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届け
られ首塚に祀られている。
楠木正成ゆかりの寺として知られる『観心寺』の山門前
山門をくぐってすぐに「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」があります。
後村上天皇は、南北朝時代の南朝第2代天皇で、約10ヶ月の間、日本の政治をここで
執行されました。
中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成の学問所で8歳~15歳までここで勉学に励みました。
金堂は国宝です。
建掛搭は重要文化財です。
楠木正成は建武新政の成功を祈願して三重搭を計画しましたが、神戸湊川で討死した為
初層のまま未完成で現在に至っています。
弁天堂
修行大師
天皇陵
金堂の右奥、長い石段(256段)を上がると、第九十七代後村上天皇の御陵があります。
住吉大社で没後、当山に御陵が作られました。
素晴らしい青空、天皇陵を下る
「楠木正成首塚」
討死後、足利尊氏の命令によりその首が当寺に送り届けられ、ここに祀られました。
此処までは、
1月24日の河内長野市楠木正成縁りの観心寺-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-01
此処では、続きの霊宝館~ の詳細についてを掲載致します。
霊宝館
10体の重要文化財の仏様が展示保管されています。他にも楠木正成ゆかりの重文が
保管されています。見応え有りました。
星塚巡り
北斗七星が祀られています。日本ではここ『観心寺』だけだそうです。
弘法大師が厄除けの為に祀られたもので、一巡する事でその年の厄が払われると
云われています。(一巡は約10分です)
観心寺を後に延命寺へ向かう
延命寺へ向かう、まだまだ坂道を上る
延命寺(えんめいじ)
延命寺とは大阪府河内長野市の真言宗御室派の寺院。山号は薬樹山。
弘仁年間(810年 – 824年)、空海が地蔵の石仏を刻んで本尊としたのが当寺の始まりと
される。寛永16年(1639年)に、この地に生まれた浄厳が伽羅山延命寺に寺号を改め中
興する。延宝5年(1677年)、薬樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に改めら
れた。山号の由来はこの地に薬草が多く生えていたことからとされる。紅葉の名刹とし
て有名で大阪みどりの百選に選ばれている。樹齢1000年とも言われている巨大なカエデ
(もみじ)の老木は「夕照もみじ」といい大阪府天然記念物に指定されている。また、
すぐ近くには長野公園・延命寺地区がある。
延命寺の石碑。
江戸時代の高僧、浄厳(じょうごん)が延宝5年(1677)に創建したといわれて
います。
延命寺の夕照もみじ
昭和45年2月20日に大阪府指定天然記念物に指定されています。
延命寺を後に千早口駅へ向かう
千早口駅へ向かう
美加の台
千早口駅 六文銭を描いた電車が来た・・・
2019-02-01 21:23
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コメント(2)
楠木正成というと「
by 駅員3 (2019-02-04 07:05)
観心寺境内&周辺は見るべきものいっぱい!
星塚巡り・大楠公首塚・後村上天皇陵で、夕映えのもみじ
以外すっと見れる延命寺さんとは違う?
延命寺→千早口駅はなかなか歩く機会がありませんが、。
by mamu7010 (2019-02-04 08:10)