1月8日の初歩き 開運松原六社参り-2
2019年1月10日 1月8日の初歩き 開運松原六社参り-2
近鉄ハイキング 歩程約10㎞
最高のハイキング日和?知人の・K場さん・I 田さん・O村さん・M村さん・M吉さんと6名で
近鉄駅フリーハイキングに参加、此の日の私の万歩計は、22228歩で約16.4km歩いた・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 布忍駅 10時集合
南大阪線布忍駅(受付・スタート)~大林寺~布忍神社~我堂八幡宮~善正寺~水みらい
センター公園~阿麻美許曽神社~大和川河川敷(昼食)~中高野街道~屯倉神社(みやけ
神社)~阿保神社(あお神社)~海泉池~柴籬神社(しばがき神社)~コメダコーヒーで休憩
~河内松原駅(ゴール)
志都美駅
柏原駅で近鉄に乗り換え
南大阪線布忍駅(受付・スタート)~大林寺
大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
又、近くにある布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝わる「布忍山
東坊縁起」には、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814年(弘仁5年)空
海が再建したが荒廃し、寛治3年に永 興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安
後期には大伽藍を誇った寺院が存在していたと思われる。
西除川を渡って布忍神社へ
布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・
我堂八幡宮
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、
延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村
明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。 明治初年に八幡神社と称した後、
大正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されていま
す。堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江
戸時代から昭和初期にか けて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石
が残っており、 貴重な民俗資料といえるでしょう。お神酒ふるまいが有りました
善正寺
善正寺(真宗大谷派善正寺)
現在、天美我堂七丁目にある真宗大谷派の善正寺は、もともとは真言宗で摂津の平野
(大阪市)にありましたが、明応年間(一四九二~一五〇一)に浄土真宗に転じ、城連寺村
に移ってきました。文禄二年に住職の順欽が教如に帰依したことから、教如が順欽に「顕
如上人真影」を下したのです。その裏書に「大谷本願寺釋教如(花押) 文禄二癸巳年正
月廿六日 河内国丹北郡天見郷城蓮寺村興正寺門徒 端坊下 願主釋順欽」とあります。
この頃、善正寺の寺号はまだ無く、その上、同じ浄土真宗でも興正寺派に属していたよう
です。 教如は、豊臣秀吉によって、十か月後の文禄二年十月、弟の准如に本願寺宗主を
譲らされ、退隠することになりました。しかし、その後も教如は、本願寺の嫡流を主張します。
西除川
今池水みらいセンター公園でトイレ休憩
水処理施設の屋上部を有効利用した多目的広場「風の広場」や遊歩道が設置された「虹
の広場」などがあり、府民の皆様に憩いの場として利用されています。 ≪場内設備≫ 散
策路、あずまや、トイレ、水飲み場、エレベーター 駐車場25台(内2台身障者用)
※水みらいせんたー
大和川下流流域下水道今池処理区は、大和川に流入する西除川、東除川の下流域を処理
区とした流域下水道です。これらの河川の水質保全と大和川沿いの低地の浸水防除を目的
とし、大阪市・堺市・八尾市・富田林市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・大阪狭山市の計8市に
またがり計画されています。本流域下水道は昭和41年度より計画調査を行い、昭和45年度
に事業着手されました。平成25年度末の処理能力は138,000m3/日となっています。
阿麻美許曾神社(あまみこそ神社)
阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれば、大同年間(大同元年=806年) 創建とされ
ているが、おそらくそれより古いであろうとされている。「許曽」は新羅の言葉に由来するとさ
れ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされている。手水舎の東
側に「行基菩薩安住之地」という石碑があり、行基がこの地に居住していたという伝承がある。
阿麻美許曾神社は、参道を含め、大阪市東住吉区となる大阪市の神社だが、その名は河内
天美の由来、境内に林立する楠は何れも樹齢500年以上の巨樹である。
大和川河川敷公園(昼食)
大和川堤防道を中高野街道へ
中高野街道
松原市中央部を南北に縦断する街道です。大阪市平野区の大念佛寺付近から発し、大阪狭
山市で下高野街道と合流して高野山へ向かいます。 中世から近世において、商業都市堺や
浪速を中心とした産業の流通や人々の伊勢詣や熊野詣、高野詣などによって発展した街道と
考えれます。長尾街道や竹内街道との交差点付近は、御茶屋などがあって、明治時代まで、
にぎわったそうです。
此処までは、
1月8日の初歩き 開運松原六社参り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10
此処では、続きの屯倉神社~ の詳細について掲載してきます。
屯倉神社(みやけ神社)
当地には古くから土師氏(後の菅原氏)祖神の天穂日命を祀る穂日の社があったという。
言い伝えによれば、大宰権帥に左遷され九州へ向かう途中の菅原道真公は祖先由来の当
地を通り、穂日の社に無実を訴えたとされるが、大阪府内には当地から大きく外れた地にも
道真伝説があり(大阪市東淀川区淡路、服部天神宮など)、真相は明らかではない。
直接現在に連なる由緒としては、天慶5年(942年)、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を
祀ったのに始まる。三宅天満宮と称していたが、明治の頃より屯倉神社と称するようになる。
境内の梅がチラホラと咲いていた
屯倉神社を後に
中高野街道へ出て、一里塚跡?
阿保神社(あお神社)
阿保親王とは、平城天皇の第2皇子、母は、葛井宿禰藤子、子に六歌仙であり伊勢物語の
著者、在原業平がいる。平城天皇が上皇のとき弟、嵯峨天皇との権力闘争様である、薬子の
乱に関連して、大宰権師として、九州に左遷される、承知元年(834)に許され、河内国丹北郡
田坐に別荘を造営したと伝える、田坐とは、現在の田井城から阿保あたりになる、承知9年(8
53)51歳で没す。
901年には菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中道明寺にいる伯母の覚寿尼に別れを告
げた帰途、阿保の土地を通られて当社で休息されました。その縁起で菅原道真公を祀る神社
になったと伝わります。
海泉池(かいずみいけ)
海泉池は池底から泉が湧く池で、阿保親王が掘った灌漑池の一つです。阿保の土地は、水利
の便が悪く農民たちが困窮していたため、親王は邸宅の中庭の池を灌漑用に改造して農民に
開放したと伝わります。阿保親王が農業生産を奨励したので、阿保の地は豊かになり、村人は、
邸宅の池を親王池と呼ぶようになったとされます。
松原商店街
柴籬神社(しばがき神社)
仁賢天皇の勅命により5世紀後半に創建されたと伝わる。所在地である上田町は18代天皇で
ある反正天皇の都跡(丹比柴籬宮)として伝えられている。 反正天皇の「瑞歯別尊」と呼ばれた
美しい歯並びの伝承により、現在は歯の神様として信仰されている。
境内の歯神
絵馬に六社の参拝印を集印して
最後の柴籬神社で「開運干支張子」を授かります・・・・
コメダコーヒーで休憩~河内松原駅
近鉄ハイキング 歩程約10㎞
最高のハイキング日和?知人の・K場さん・I 田さん・O村さん・M村さん・M吉さんと6名で
近鉄駅フリーハイキングに参加、此の日の私の万歩計は、22228歩で約16.4km歩いた・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 布忍駅 10時集合
南大阪線布忍駅(受付・スタート)~大林寺~布忍神社~我堂八幡宮~善正寺~水みらい
センター公園~阿麻美許曽神社~大和川河川敷(昼食)~中高野街道~屯倉神社(みやけ
神社)~阿保神社(あお神社)~海泉池~柴籬神社(しばがき神社)~コメダコーヒーで休憩
~河内松原駅(ゴール)
志都美駅
柏原駅で近鉄に乗り換え
南大阪線布忍駅(受付・スタート)~大林寺
大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
又、近くにある布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝わる「布忍山
東坊縁起」には、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814年(弘仁5年)空
海が再建したが荒廃し、寛治3年に永 興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安
後期には大伽藍を誇った寺院が存在していたと思われる。
西除川を渡って布忍神社へ
布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・
我堂八幡宮
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、
延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村
明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。 明治初年に八幡神社と称した後、
大正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されていま
す。堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江
戸時代から昭和初期にか けて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石
が残っており、 貴重な民俗資料といえるでしょう。お神酒ふるまいが有りました
善正寺
善正寺(真宗大谷派善正寺)
現在、天美我堂七丁目にある真宗大谷派の善正寺は、もともとは真言宗で摂津の平野
(大阪市)にありましたが、明応年間(一四九二~一五〇一)に浄土真宗に転じ、城連寺村
に移ってきました。文禄二年に住職の順欽が教如に帰依したことから、教如が順欽に「顕
如上人真影」を下したのです。その裏書に「大谷本願寺釋教如(花押) 文禄二癸巳年正
月廿六日 河内国丹北郡天見郷城蓮寺村興正寺門徒 端坊下 願主釋順欽」とあります。
この頃、善正寺の寺号はまだ無く、その上、同じ浄土真宗でも興正寺派に属していたよう
です。 教如は、豊臣秀吉によって、十か月後の文禄二年十月、弟の准如に本願寺宗主を
譲らされ、退隠することになりました。しかし、その後も教如は、本願寺の嫡流を主張します。
西除川
今池水みらいセンター公園でトイレ休憩
水処理施設の屋上部を有効利用した多目的広場「風の広場」や遊歩道が設置された「虹
の広場」などがあり、府民の皆様に憩いの場として利用されています。 ≪場内設備≫ 散
策路、あずまや、トイレ、水飲み場、エレベーター 駐車場25台(内2台身障者用)
※水みらいせんたー
大和川下流流域下水道今池処理区は、大和川に流入する西除川、東除川の下流域を処理
区とした流域下水道です。これらの河川の水質保全と大和川沿いの低地の浸水防除を目的
とし、大阪市・堺市・八尾市・富田林市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・大阪狭山市の計8市に
またがり計画されています。本流域下水道は昭和41年度より計画調査を行い、昭和45年度
に事業着手されました。平成25年度末の処理能力は138,000m3/日となっています。
阿麻美許曾神社(あまみこそ神社)
阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれば、大同年間(大同元年=806年) 創建とされ
ているが、おそらくそれより古いであろうとされている。「許曽」は新羅の言葉に由来するとさ
れ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされている。手水舎の東
側に「行基菩薩安住之地」という石碑があり、行基がこの地に居住していたという伝承がある。
阿麻美許曾神社は、参道を含め、大阪市東住吉区となる大阪市の神社だが、その名は河内
天美の由来、境内に林立する楠は何れも樹齢500年以上の巨樹である。
大和川河川敷公園(昼食)
大和川堤防道を中高野街道へ
中高野街道
松原市中央部を南北に縦断する街道です。大阪市平野区の大念佛寺付近から発し、大阪狭
山市で下高野街道と合流して高野山へ向かいます。 中世から近世において、商業都市堺や
浪速を中心とした産業の流通や人々の伊勢詣や熊野詣、高野詣などによって発展した街道と
考えれます。長尾街道や竹内街道との交差点付近は、御茶屋などがあって、明治時代まで、
にぎわったそうです。
此処までは、
1月8日の初歩き 開運松原六社参り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10
此処では、続きの屯倉神社~ の詳細について掲載してきます。
屯倉神社(みやけ神社)
当地には古くから土師氏(後の菅原氏)祖神の天穂日命を祀る穂日の社があったという。
言い伝えによれば、大宰権帥に左遷され九州へ向かう途中の菅原道真公は祖先由来の当
地を通り、穂日の社に無実を訴えたとされるが、大阪府内には当地から大きく外れた地にも
道真伝説があり(大阪市東淀川区淡路、服部天神宮など)、真相は明らかではない。
直接現在に連なる由緒としては、天慶5年(942年)、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を
祀ったのに始まる。三宅天満宮と称していたが、明治の頃より屯倉神社と称するようになる。
境内の梅がチラホラと咲いていた
屯倉神社を後に
中高野街道へ出て、一里塚跡?
阿保神社(あお神社)
阿保親王とは、平城天皇の第2皇子、母は、葛井宿禰藤子、子に六歌仙であり伊勢物語の
著者、在原業平がいる。平城天皇が上皇のとき弟、嵯峨天皇との権力闘争様である、薬子の
乱に関連して、大宰権師として、九州に左遷される、承知元年(834)に許され、河内国丹北郡
田坐に別荘を造営したと伝える、田坐とは、現在の田井城から阿保あたりになる、承知9年(8
53)51歳で没す。
901年には菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中道明寺にいる伯母の覚寿尼に別れを告
げた帰途、阿保の土地を通られて当社で休息されました。その縁起で菅原道真公を祀る神社
になったと伝わります。
海泉池(かいずみいけ)
海泉池は池底から泉が湧く池で、阿保親王が掘った灌漑池の一つです。阿保の土地は、水利
の便が悪く農民たちが困窮していたため、親王は邸宅の中庭の池を灌漑用に改造して農民に
開放したと伝わります。阿保親王が農業生産を奨励したので、阿保の地は豊かになり、村人は、
邸宅の池を親王池と呼ぶようになったとされます。
松原商店街
柴籬神社(しばがき神社)
仁賢天皇の勅命により5世紀後半に創建されたと伝わる。所在地である上田町は18代天皇で
ある反正天皇の都跡(丹比柴籬宮)として伝えられている。 反正天皇の「瑞歯別尊」と呼ばれた
美しい歯並びの伝承により、現在は歯の神様として信仰されている。
境内の歯神
絵馬に六社の参拝印を集印して
最後の柴籬神社で「開運干支張子」を授かります・・・・
コメダコーヒーで休憩~河内松原駅
2019-01-10 19:19
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コメント(4)
もう梅の花が。
気が早いけど、早く春になれ~。
by がり (2019-01-14 20:11)
天気は最高、気分良くハイキングができました。
阿保神社では書初めに夢中になりいつもの集合写真に遅れました。
又、屯倉神社の梅まつりも行きたいです。
それにしても松原六社神社巡りスタンプ、気持ち良く頂きました。
by mamu7010 (2019-01-14 21:08)
がりさん
コメント有難う御座います!(^^)!
今日も住吉大社へ初詣ハイキングへ行って来ましたが、
とても春めいた良い天気で歩いていると汗ばむほどでした。
by taharas (2019-01-14 21:37)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
今日はI 田さんO村さんと3名で住吉大社初詣ハイキング
行って来ました、長居公園へ回らず天王寺へ逆戻りした為、
だいぶ歩きました、26791歩で約19.8km・・・
by taharas (2019-01-14 21:43)