11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-2
12月1日 11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-2
近鉄駅フリーハイキング 約7㎞
此の日は、K場さん・O村さん・M村さん・I 田さんと私の5名でワイワイガヤガヤ歩いた
コース 近鉄駅フリーハイキング 安堂駅受付9時30分~11時 10時5分集合
安堂駅(受付)~大和川付替え記念公園~道明寺線第二溝橋~柏原黒田神社~柏原
舟ふなだまり跡~三田家住宅~柏原神社~オガタ通り商店街~鐸比古鐸比賈神社~
観音寺~清浄泉~石神社~カタシモワイナリー祭り会場~皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ。此の日の私の万歩計は、17046歩で約12.6km歩いたことに・・・
安堂駅(受付)で知人と合流、大和川付替え記念公園へ向かう
大和川付替え記念公園・中甚兵衛の像
大和川付替え工事
大和川は常に洪水の危険が付きまとい、古くは飛鳥、奈良時代から洪水の記録があり、
江戸時代になってからでも、元禄年間までの80年間で10数回もの洪水が河内平野を
襲っている。特に、1674年(延宝2年)から3年連続、計4回の洪水は未曾有の被害を
もたらし、その被害は河内平野だけでなく、大坂市中まで及んだという。
こうした被害をなくすため、1657年(明暦3年)ごろ、河内地域の農民から大和川を石
川との合流点から西に向け、直接、住吉、堺方面へ流す案を幕府に嘆願した。
この付け替え運動に中心的役割を果たしたのが、今米村(現東大阪市)の庄屋中甚兵
衛であった。これに対して付替え予定地に当たる村々は、激しく反対し、付替え反対の
嘆願を行い、河内を2分する様相であった。
幕府は、たびたび現地を検分、付替え以外の対策も検討され、河村瑞賢が下流の改
修工事を行った以降も洪水が続発し、抜本的な洪水対策にはならなかった。
このような事態を踏まえ、幕府は方向を転換、1703年(元禄16年)10月大和川の付
替え工事を正式に決定した。明暦3年の最初の嘆願から、付替え工事の決定まで、実
に約50年近くの歳月を要した。この工事にかかった費用は約7万7千両、工事従事者
延べ約286万人と言われる。費用のうち幕府は約3万7千両を負担したが、旧川筋の
新田開発の入札代金が約3万7千両で、幕府にとっては収支トントンの事業であった。
道明寺線第二溝橋
柏原市上市2丁目の「第2溝橋」この溝橋のレンガ積みは、フランス積みで造られている。
柏原黒田神社
柏原黒田神社(かしわらくろだじんじゃ)は、もとは塩殿神社と称し、塩土翁命を奉斎し
ていた。その創建年代は不詳。開運・交通安全の神として崇敬されたという。 昭和20
年(1945年)の戦禍で、社殿が甚だしく損傷。その後、復興が目指された。
その中で、北條鎮座の黒田神社、上市鎮座の春日神社の勧請と合祀が図られ、三社
の関係者が合議した。
昭和44年(1969年)6月、新社殿が竣工し、同年9月には両神社の御祭神を遷座合祀、
現社号に改称した。
御祭神は、塩土老翁の他、天御中主大神・天照大神・武甕槌神・経津主神・天児屋根
命・比売大神・八幡大神。
拝殿左手に石力不動尊が祀られ、他に、恵美須神社(事代主大神)がある。
柏原舟ふなだまり跡へ向かう
柏原舟ふなだまり跡
現在は児童公園になってる柏原舟ふなだまり跡地とその石碑
柏原市の三田家住宅裏の船着場址
三田家住宅
柏原神社
入口には注連柱、参道脇に「村社柏原神社」と記された社号標、参道途中に鳥居が
立ち、境内の途中に小川が流れ、神橋と石段参道があります。境内前面は旧大和川
の河床だったようで、この段差が河岸段丘跡なのだそうです。
参道左に境内社、神輿倉、右に神楽殿が配され、中央奥に社殿が建立され、その中
に本殿が安置されています。神輿倉の中には古い神輿が置かれていますが、現在は
担ぐこともなくなったそうです。
御祭神:宇迦之御魂神、境内社:若宮社
創建年月は不詳ですが、1700年頃に滋賀県の白髭神社からの勧請かと思われます。
この社の御祭神は宇迦之御魂神ですが、滋賀県・白髭神社の御祭神は猿田彦命で、
「大阪府全志」にこの社の由緒を「創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せし
を、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。 無格社なりしも、泉北郡向井村の
村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀
するとともに村社に列し、更に志紀村の稲荷神社「倉稻魂命」を合祀。」とあるようです。
水路沿いを
オガタ通り商店街へ向かう
オガタ通り商店街
全長約800mに及ぶJR柏原駅と近鉄堅下駅を結ぶ通りにもなっている商店街です。
昭和26年設立の商店街で ワイングラスを逆さにした様な街灯のシェードが面白い。
鐸比古鐸比賈神社へ向かう
此処までは、
11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-01
此処では、続きの鐸比古鐸比賈神社~の詳細を掲載します。
鐸比古鐸比賈神社
祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石
別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国
でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:2
78m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151年)
とされるが、実際の年代は不明。
『河内名所図会』には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾
山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比
古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていた
が、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の
再建。
観音寺へ向かう
溜池
観音寺・ 智識寺跡
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたという。
智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や孝謙
(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、当時とし
ては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願の契機となっ
たいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再建されることはな
かった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが奈良・
平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえるだけに貴
重な物といえる。観音寺の麓にある石神社の境内に智識寺の東塔の礎石が残されてい
る。この心礎の柱穴の径は約1.2mあり、このことから、塔の高さはおよそ50mはあった
と推定されるとのことである。
清浄泉(浄井戸)へ向かう
清浄泉(浄井戸)
浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、
生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然水として古くか
ら親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大師(空海)がこの井戸
を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがあります。
石神社
知識寺東搭礎石有り
主祭神石姫皇女 - 宣化天皇の皇女、欽明天皇の皇后である。配祀神石長姫命、熊野権現
石神社は、柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹に位置する。 麓
の境内に社務所が、高い石段を登ったところに社殿がある。日本三代実録には貞観9年
(867年)2月に官社に列せられたという記述があり、延喜式神名帳では小社に列している。
江戸時代に入ると太平寺村の氏神として信仰され、熊野権現社と称していた。かつて、この
辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があった。 聖武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を
往来する際にここを訪れ、礼拝例仏されたという。 智識寺には大きい廬舎那仏があり、これ
を見た聖武天皇が東大寺大仏造営を発願されたといわれている。 その後、智識寺は室町
時代ごろに廃れたとされる。
境内にある大きなクスノキは、周囲約6m・高さ約16m以上の大木で、樹齢700~800年と
推定されており、大阪府指定天然記念物となっている。
境内社務所横には、智識寺の東塔の礎石があり、大阪府の文化財に指定されている。礎
石の柱穴の直径が122cmあり、かつては神社の手洗い石として使用されていたようだが、
現在は柵で囲われている。
カタシモワイナリー祭り会場
500円で赤か白ワインを試飲?高額すぎるが私は試しに赤ワインを・・・
皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ向かう
近鉄駅フリーハイキング 約7㎞
此の日は、K場さん・O村さん・M村さん・I 田さんと私の5名でワイワイガヤガヤ歩いた
コース 近鉄駅フリーハイキング 安堂駅受付9時30分~11時 10時5分集合
安堂駅(受付)~大和川付替え記念公園~道明寺線第二溝橋~柏原黒田神社~柏原
舟ふなだまり跡~三田家住宅~柏原神社~オガタ通り商店街~鐸比古鐸比賈神社~
観音寺~清浄泉~石神社~カタシモワイナリー祭り会場~皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ。此の日の私の万歩計は、17046歩で約12.6km歩いたことに・・・
安堂駅(受付)で知人と合流、大和川付替え記念公園へ向かう
大和川付替え記念公園・中甚兵衛の像
大和川付替え工事
大和川は常に洪水の危険が付きまとい、古くは飛鳥、奈良時代から洪水の記録があり、
江戸時代になってからでも、元禄年間までの80年間で10数回もの洪水が河内平野を
襲っている。特に、1674年(延宝2年)から3年連続、計4回の洪水は未曾有の被害を
もたらし、その被害は河内平野だけでなく、大坂市中まで及んだという。
こうした被害をなくすため、1657年(明暦3年)ごろ、河内地域の農民から大和川を石
川との合流点から西に向け、直接、住吉、堺方面へ流す案を幕府に嘆願した。
この付け替え運動に中心的役割を果たしたのが、今米村(現東大阪市)の庄屋中甚兵
衛であった。これに対して付替え予定地に当たる村々は、激しく反対し、付替え反対の
嘆願を行い、河内を2分する様相であった。
幕府は、たびたび現地を検分、付替え以外の対策も検討され、河村瑞賢が下流の改
修工事を行った以降も洪水が続発し、抜本的な洪水対策にはならなかった。
このような事態を踏まえ、幕府は方向を転換、1703年(元禄16年)10月大和川の付
替え工事を正式に決定した。明暦3年の最初の嘆願から、付替え工事の決定まで、実
に約50年近くの歳月を要した。この工事にかかった費用は約7万7千両、工事従事者
延べ約286万人と言われる。費用のうち幕府は約3万7千両を負担したが、旧川筋の
新田開発の入札代金が約3万7千両で、幕府にとっては収支トントンの事業であった。
道明寺線第二溝橋
柏原市上市2丁目の「第2溝橋」この溝橋のレンガ積みは、フランス積みで造られている。
柏原黒田神社
柏原黒田神社(かしわらくろだじんじゃ)は、もとは塩殿神社と称し、塩土翁命を奉斎し
ていた。その創建年代は不詳。開運・交通安全の神として崇敬されたという。 昭和20
年(1945年)の戦禍で、社殿が甚だしく損傷。その後、復興が目指された。
その中で、北條鎮座の黒田神社、上市鎮座の春日神社の勧請と合祀が図られ、三社
の関係者が合議した。
昭和44年(1969年)6月、新社殿が竣工し、同年9月には両神社の御祭神を遷座合祀、
現社号に改称した。
御祭神は、塩土老翁の他、天御中主大神・天照大神・武甕槌神・経津主神・天児屋根
命・比売大神・八幡大神。
拝殿左手に石力不動尊が祀られ、他に、恵美須神社(事代主大神)がある。
柏原舟ふなだまり跡へ向かう
柏原舟ふなだまり跡
現在は児童公園になってる柏原舟ふなだまり跡地とその石碑
柏原市の三田家住宅裏の船着場址
三田家住宅
柏原神社
入口には注連柱、参道脇に「村社柏原神社」と記された社号標、参道途中に鳥居が
立ち、境内の途中に小川が流れ、神橋と石段参道があります。境内前面は旧大和川
の河床だったようで、この段差が河岸段丘跡なのだそうです。
参道左に境内社、神輿倉、右に神楽殿が配され、中央奥に社殿が建立され、その中
に本殿が安置されています。神輿倉の中には古い神輿が置かれていますが、現在は
担ぐこともなくなったそうです。
御祭神:宇迦之御魂神、境内社:若宮社
創建年月は不詳ですが、1700年頃に滋賀県の白髭神社からの勧請かと思われます。
この社の御祭神は宇迦之御魂神ですが、滋賀県・白髭神社の御祭神は猿田彦命で、
「大阪府全志」にこの社の由緒を「創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せし
を、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。 無格社なりしも、泉北郡向井村の
村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀
するとともに村社に列し、更に志紀村の稲荷神社「倉稻魂命」を合祀。」とあるようです。
水路沿いを
オガタ通り商店街へ向かう
オガタ通り商店街
全長約800mに及ぶJR柏原駅と近鉄堅下駅を結ぶ通りにもなっている商店街です。
昭和26年設立の商店街で ワイングラスを逆さにした様な街灯のシェードが面白い。
鐸比古鐸比賈神社へ向かう
此処までは、
11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-01
此処では、続きの鐸比古鐸比賈神社~の詳細を掲載します。
鐸比古鐸比賈神社
祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石
別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国
でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:2
78m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151年)
とされるが、実際の年代は不明。
『河内名所図会』には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾
山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比
古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていた
が、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の
再建。
観音寺へ向かう
溜池
観音寺・ 智識寺跡
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたという。
智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や孝謙
(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、当時とし
ては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願の契機となっ
たいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再建されることはな
かった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが奈良・
平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえるだけに貴
重な物といえる。観音寺の麓にある石神社の境内に智識寺の東塔の礎石が残されてい
る。この心礎の柱穴の径は約1.2mあり、このことから、塔の高さはおよそ50mはあった
と推定されるとのことである。
清浄泉(浄井戸)へ向かう
清浄泉(浄井戸)
浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、
生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然水として古くか
ら親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大師(空海)がこの井戸
を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがあります。
石神社
知識寺東搭礎石有り
主祭神石姫皇女 - 宣化天皇の皇女、欽明天皇の皇后である。配祀神石長姫命、熊野権現
石神社は、柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹に位置する。 麓
の境内に社務所が、高い石段を登ったところに社殿がある。日本三代実録には貞観9年
(867年)2月に官社に列せられたという記述があり、延喜式神名帳では小社に列している。
江戸時代に入ると太平寺村の氏神として信仰され、熊野権現社と称していた。かつて、この
辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があった。 聖武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を
往来する際にここを訪れ、礼拝例仏されたという。 智識寺には大きい廬舎那仏があり、これ
を見た聖武天皇が東大寺大仏造営を発願されたといわれている。 その後、智識寺は室町
時代ごろに廃れたとされる。
境内にある大きなクスノキは、周囲約6m・高さ約16m以上の大木で、樹齢700~800年と
推定されており、大阪府指定天然記念物となっている。
境内社務所横には、智識寺の東塔の礎石があり、大阪府の文化財に指定されている。礎
石の柱穴の直径が122cmあり、かつては神社の手洗い石として使用されていたようだが、
現在は柵で囲われている。
カタシモワイナリー祭り会場
500円で赤か白ワインを試飲?高額すぎるが私は試しに赤ワインを・・・
皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ向かう
2018-12-01 22:01
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コメント(2)
コースとしては非常に好ましいです。
鐸比古鐸比賈神社・石神社も、今は大好きです。
来年は少し、カタシモワイナリー祭りも改善されるでしょうから
期待してます。
by mamu7010 (2018-12-06 18:42)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
私はワインは飲めないからカタシモワイナリーは祭りは
無くても良い、ハイキングコースとしては私も気に入ってる。
by taharas (2018-12-07 00:43)