10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー2
10月26日 10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー2
近鉄駅フリーはいきん 約9km
此の日は、大和西大寺駅~平城宮跡へ秋の空気を感じながら神社仏閣巡りに出かけよう、
とのハイキングへ・K場さん・I 田さんと私の3名で参加、平城宮跡の天平祭りの大勢の人
出に加担?して来ました。
近鉄駅フリーハイキング 大和西大寺駅南出口 受付9:30~11:00 10時5分集合
大和西大寺駅~西大寺~菅原天満宮~喜光寺~垂仁天皇陵~唐招提寺~養天満宮~
がんこ一徹長屋~薬師寺~秋篠川沿い公園で昼食~平城宮跡・天平祭~大極殿~二人
は西大寺駅へ帰り、私は朱雀門前広場へ戻ってバスでJR奈良駅経由して帰る事に・・・
此の日の私の万歩計は、22000歩で約16.2km歩いたことに・・・
志都美駅
知人二人と合流
大和西大寺駅受付・スタート
西大寺(さいだいじ)
西大寺は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重
祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大
寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代
に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
菅原天満宮へ向かう
八坂神社
八坂神社は奈良市青野町にある神社。
由来などは全く分らないが、小さく纏まった建物の構造をしている。
小さいながらも綺麗に整った本殿がある。
オオナムキノミコト、スサノオノミコト、スクナヒコナノミコトを祀っている。
菅原天満宮へ向かう
菅原天満宮(すがわらてんまんぐう/すがはら-)
菅原天満宮は、奈良県奈良市菅原町にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
古代氏族の土師氏・菅原氏に関係する神社として知られる。
祭神は次の3柱。
天穂日命(あめのほひのみこと)
野見宿祢命(のみのすくねのみこと)
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は1座。社伝では、元々の
祭神は天穂日命1柱であったが、のち野見宿禰・菅原道真が配祀されて3柱となった
という。
創建は不詳。菅原の地を本貫(本拠地)とする土師氏支族(のちの菅原氏)が、その
祖神を祀ったことに始まると推測される。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳
では大和国添下郡に「菅原神社」と記載され、式内社に列している。
菅原神社の祭祀は、菅原の土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀ったことに
始まると見られているが、後世に菅原道真の誕生地とする説も生じ、現在は天神信
仰の神社として信仰されている。
喜光寺(きこうじ)
喜光寺は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領で
あったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時
代の僧・行基が没した地とされている。法相宗の別格本山。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した
僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原
寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、
翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一
つであるとされている。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この
寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた
生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅
筒に記されていたものである。
垂仁天皇陵へ向かう
垂仁天皇陵
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市
尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみの
ひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
左手前の小さな島
※田道間守
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命
により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派
遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)
3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉を
とった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすで
に崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。
『日本書紀』『古事記』では田道間守の墓に関する記載はないが、『釈日本紀』巻
10(述義6)所引の『天書』では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵
近くに葬ったとしている。現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山
古墳(奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守
の墓に仮託され、湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されている。
※垂仁天皇(すいにんてんのう
垂仁天皇は第11代天皇。伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴
輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊
(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘
古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、
『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにり
ひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が
強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認め
ることが多い。
崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、
御 間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后
とした。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿
原市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を
埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにし
べ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めた
というのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農
業を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷
命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求
めさせる。同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大
日本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。
唐招提寺へ向かう
此処までは、
10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-10-26
此処では、続きの唐招提寺~の詳細を掲載します。
唐招提寺
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立
されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立す
るために東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武
天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を
営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、
食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂
や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招
堤」から「唐招提寺」となりました。
薬師寺へ向かう
養天満宮
かつては、薬師寺の寺内社でした(現在は、社寺地は線路で分断されています)
創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかの
ぼると考えられるそうです。本殿は元禄15年(1702)の改築。
祭神;菅原道真公 境内社;熊野神社、蛭子神社、気比神社
社叢は市の指定文化財(1989年指定)。
天然記念物のツブラジイを中心とする群落は、住宅地にあって原始林的な森林
形態を保っているのは極めて珍しいそうです。
がんこ一徹長屋
がんこはこだわりです。こだわらな職人やない!!
伝統を受け継いだ大和の7人の匠が、こだわりの技を存分に魅せる、ほんまもん
の職人長屋です。
薬師寺
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の
伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
秋篠川沿い公園で昼食
平城宮跡
朱雀門・天平祭
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内
裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からな
る宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏
とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与
されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)
する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と
呼ばれていた。714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされ
る朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀
大路という。平城京朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考
にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城
宮跡)。朱雀門の位置や規模が1964年の発掘調査で確認され、翌年に10分の1
サイズで模型製作が行われる。その後、1989年に決定された基壇の復原工事が
1992年に終わると、門本体の復原工事は1993年に開始され、1998年に竣工し
ている。
朱雀門前で天平祭が執り行われていた・・・
第一次大極殿へ向かう
平城宮跡
平城京は、今から1300年程前に奈良市に建設された都です。その中心の平城
宮には天皇の住まいや官公庁が集まっていました。甲子園球場が30個も入る
広大なスペースには、現在様々な公開施設が有ります。
大極殿・・・第一次大極殿
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物
大で復元された。(→平城遷都1300年記念事業)
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大
棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金
具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を
通じ、この金具の意匠設計を進めたという。 宝珠形の大棟中央飾りの類例とし
て、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺
などがある。
朱雀門前広場へ向かう
朱雀門
朱雀門前広場
私は朱雀門前広場へ戻り、バスでJR奈良駅経由で帰った
近鉄駅フリーはいきん 約9km
此の日は、大和西大寺駅~平城宮跡へ秋の空気を感じながら神社仏閣巡りに出かけよう、
とのハイキングへ・K場さん・I 田さんと私の3名で参加、平城宮跡の天平祭りの大勢の人
出に加担?して来ました。
近鉄駅フリーハイキング 大和西大寺駅南出口 受付9:30~11:00 10時5分集合
大和西大寺駅~西大寺~菅原天満宮~喜光寺~垂仁天皇陵~唐招提寺~養天満宮~
がんこ一徹長屋~薬師寺~秋篠川沿い公園で昼食~平城宮跡・天平祭~大極殿~二人
は西大寺駅へ帰り、私は朱雀門前広場へ戻ってバスでJR奈良駅経由して帰る事に・・・
此の日の私の万歩計は、22000歩で約16.2km歩いたことに・・・
志都美駅
知人二人と合流
大和西大寺駅受付・スタート
西大寺(さいだいじ)
西大寺は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重
祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大
寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代
に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
菅原天満宮へ向かう
八坂神社
八坂神社は奈良市青野町にある神社。
由来などは全く分らないが、小さく纏まった建物の構造をしている。
小さいながらも綺麗に整った本殿がある。
オオナムキノミコト、スサノオノミコト、スクナヒコナノミコトを祀っている。
菅原天満宮へ向かう
菅原天満宮(すがわらてんまんぐう/すがはら-)
菅原天満宮は、奈良県奈良市菅原町にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
古代氏族の土師氏・菅原氏に関係する神社として知られる。
祭神は次の3柱。
天穂日命(あめのほひのみこと)
野見宿祢命(のみのすくねのみこと)
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は1座。社伝では、元々の
祭神は天穂日命1柱であったが、のち野見宿禰・菅原道真が配祀されて3柱となった
という。
創建は不詳。菅原の地を本貫(本拠地)とする土師氏支族(のちの菅原氏)が、その
祖神を祀ったことに始まると推測される。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳
では大和国添下郡に「菅原神社」と記載され、式内社に列している。
菅原神社の祭祀は、菅原の土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀ったことに
始まると見られているが、後世に菅原道真の誕生地とする説も生じ、現在は天神信
仰の神社として信仰されている。
喜光寺(きこうじ)
喜光寺は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領で
あったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時
代の僧・行基が没した地とされている。法相宗の別格本山。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した
僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原
寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、
翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一
つであるとされている。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この
寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた
生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅
筒に記されていたものである。
垂仁天皇陵へ向かう
垂仁天皇陵
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市
尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみの
ひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
左手前の小さな島
※田道間守
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命
により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派
遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)
3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉を
とった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすで
に崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。
『日本書紀』『古事記』では田道間守の墓に関する記載はないが、『釈日本紀』巻
10(述義6)所引の『天書』では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵
近くに葬ったとしている。現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山
古墳(奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守
の墓に仮託され、湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されている。
※垂仁天皇(すいにんてんのう
垂仁天皇は第11代天皇。伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴
輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊
(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘
古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、
『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにり
ひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が
強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認め
ることが多い。
崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、
御 間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后
とした。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿
原市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を
埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにし
べ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めた
というのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農
業を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷
命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求
めさせる。同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大
日本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。
唐招提寺へ向かう
此処までは、
10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-10-26
此処では、続きの唐招提寺~の詳細を掲載します。
唐招提寺
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立
されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立す
るために東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武
天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を
営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、
食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂
や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招
堤」から「唐招提寺」となりました。
薬師寺へ向かう
養天満宮
かつては、薬師寺の寺内社でした(現在は、社寺地は線路で分断されています)
創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかの
ぼると考えられるそうです。本殿は元禄15年(1702)の改築。
祭神;菅原道真公 境内社;熊野神社、蛭子神社、気比神社
社叢は市の指定文化財(1989年指定)。
天然記念物のツブラジイを中心とする群落は、住宅地にあって原始林的な森林
形態を保っているのは極めて珍しいそうです。
がんこ一徹長屋
がんこはこだわりです。こだわらな職人やない!!
伝統を受け継いだ大和の7人の匠が、こだわりの技を存分に魅せる、ほんまもん
の職人長屋です。
薬師寺
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の
伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
秋篠川沿い公園で昼食
平城宮跡
朱雀門・天平祭
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内
裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からな
る宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏
とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与
されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)
する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と
呼ばれていた。714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされ
る朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀
大路という。平城京朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考
にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城
宮跡)。朱雀門の位置や規模が1964年の発掘調査で確認され、翌年に10分の1
サイズで模型製作が行われる。その後、1989年に決定された基壇の復原工事が
1992年に終わると、門本体の復原工事は1993年に開始され、1998年に竣工し
ている。
朱雀門前で天平祭が執り行われていた・・・
第一次大極殿へ向かう
平城宮跡
平城京は、今から1300年程前に奈良市に建設された都です。その中心の平城
宮には天皇の住まいや官公庁が集まっていました。甲子園球場が30個も入る
広大なスペースには、現在様々な公開施設が有ります。
大極殿・・・第一次大極殿
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物
大で復元された。(→平城遷都1300年記念事業)
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大
棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金
具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を
通じ、この金具の意匠設計を進めたという。 宝珠形の大棟中央飾りの類例とし
て、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺
などがある。
朱雀門前広場へ向かう
朱雀門
朱雀門前広場
私は朱雀門前広場へ戻り、バスでJR奈良駅経由で帰った
2018-10-26 17:32
nice!(25)
コメント(2)
秋篠川沿い公園で昼食って良いですネ。
薬師寺⇔唐招提寺、特に唐招提寺が大好きです。
平城宮跡・朱雀門&朱雀門前広場、も、良いですね。
ハイキング気分満喫です。
by mamu7010 (2018-10-28 20:28)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
朱雀門でのイベントで沖縄舞踊もやってたが此れは、
見逃してしまい、残念だった。音楽は大極殿の方へも
聞こえてて朱雀門へ戻るのと演舞が終わるのが一緒だった。
by taharas (2018-10-29 01:09)