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10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー2

10月26日         10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー2
                   近鉄駅フリーはいきん 約9km 
此の日は、大和西大寺駅~平城宮跡へ秋の空気を感じながら神社仏閣巡りに出かけよう、
とのハイキングへ・K場さん・I 田さんと私の3名で参加、平城宮跡の天平祭りの大勢の人
出に加担?して来ました。
近鉄駅フリーハイキング 大和西大寺駅南出口 受付9:30~11:00 10時5分集合
大和西大寺駅~西大寺~菅原天満宮~喜光寺~垂仁天皇陵~唐招提寺~養天満宮~
がんこ一徹長屋~薬師寺~秋篠川沿い公園で昼食~平城宮跡・天平祭~大極殿~二人
は西大寺駅へ帰り、私は朱雀門前広場へ戻ってバスでJR奈良駅経由して帰る事に・・・
此の日の私の万歩計は、22000歩で約16.2km歩いたことに・・・
志都美駅
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知人二人と合流
大和西大寺駅受付・スタート
西大寺(さいだいじ)
西大寺は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重
祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大
寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代
に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
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菅原天満宮へ向かう
八坂神社
八坂神社は奈良市青野町にある神社。
由来などは全く分らないが、小さく纏まった建物の構造をしている。
小さいながらも綺麗に整った本殿がある。
オオナムキノミコト、スサノオノミコト、スクナヒコナノミコトを祀っている。
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菅原天満宮へ向かう
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菅原天満宮(すがわらてんまんぐう/すがはら-)
菅原天満宮は、奈良県奈良市菅原町にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
古代氏族の土師氏・菅原氏に関係する神社として知られる。
祭神は次の3柱。
天穂日命(あめのほひのみこと)
野見宿祢命(のみのすくねのみこと)
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は1座。社伝では、元々の
祭神は天穂日命1柱であったが、のち野見宿禰・菅原道真が配祀されて3柱となった
という。
創建は不詳。菅原の地を本貫(本拠地)とする土師氏支族(のちの菅原氏)が、その
祖神を祀ったことに始まると推測される。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳
では大和国添下郡に「菅原神社」と記載され、式内社に列している。
菅原神社の祭祀は、菅原の土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀ったことに
始まると見られているが、後世に菅原道真の誕生地とする説も生じ、現在は天神信
仰の神社として信仰されている。
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喜光寺(きこうじ)
喜光寺は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領で
あったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時
代の僧・行基が没した地とされている。法相宗の別格本山。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した
僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原
寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、
翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一
つであるとされている。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この
寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた
生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅
筒に記されていたものである。
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垂仁天皇陵へ向かう
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垂仁天皇陵
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市
尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみの
ひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
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左手前の小さな島
※田道間守
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命
により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派
遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)
3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉を
とった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすで
に崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。
『日本書紀』『古事記』では田道間守の墓に関する記載はないが、『釈日本紀』巻
10(述義6)所引の『天書』では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵
近くに葬ったとしている。現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山
古墳(奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守
の墓に仮託され、湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されている。
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※垂仁天皇(すいにんてんのう
垂仁天皇は第11代天皇。伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴
輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊
(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘
古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、
『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにり
ひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が
強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認め
ることが多い。
崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、
御 間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后
とした。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿
原市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を
埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにし
べ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めた
というのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農
業を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷
命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求
めさせる。同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大
日本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。

唐招提寺へ向かう
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此処までは、
10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-10-26
此処では、続きの唐招提寺~の詳細を掲載します。
唐招提寺
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立
されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立す
るために東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武
天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を
営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、
食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂
や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招
堤」から「唐招提寺」となりました。
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薬師寺へ向かう
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養天満宮
かつては、薬師寺の寺内社でした(現在は、社寺地は線路で分断されています)
創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかの
ぼると考えられるそうです。本殿は元禄15年(1702)の改築。
祭神;菅原道真公  境内社;熊野神社、蛭子神社、気比神社
社叢は市の指定文化財(1989年指定)。
天然記念物のツブラジイを中心とする群落は、住宅地にあって原始林的な森林
形態を保っているのは極めて珍しいそうです。
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がんこ一徹長屋
がんこはこだわりです。こだわらな職人やない!!
伝統を受け継いだ大和の7人の匠が、こだわりの技を存分に魅せる、ほんまもん
の職人長屋です。
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薬師寺
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の
伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
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秋篠川沿い公園で昼食
平城宮跡
朱雀門・天平祭
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内
裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からな
る宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏
とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与
されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)
する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と
呼ばれていた。714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされ
る朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀
大路という。平城京朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考
にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城
宮跡)。朱雀門の位置や規模が1964年の発掘調査で確認され、翌年に10分の1
サイズで模型製作が行われる。その後、1989年に決定された基壇の復原工事が
1992年に終わると、門本体の復原工事は1993年に開始され、1998年に竣工し
ている。
朱雀門前で天平祭が執り行われていた・・・
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第一次大極殿へ向かう
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平城宮跡
平城京は、今から1300年程前に奈良市に建設された都です。その中心の平城
宮には天皇の住まいや官公庁が集まっていました。甲子園球場が30個も入る
広大なスペースには、現在様々な公開施設が有ります。
大極殿・・・第一次大極殿
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物
大で復元された。(→平城遷都1300年記念事業)
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大
棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金
具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を
通じ、この金具の意匠設計を進めたという。 宝珠形の大棟中央飾りの類例とし
て、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺
などがある。
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朱雀門前広場へ向かう
朱雀門
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朱雀門前広場
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私は朱雀門前広場へ戻り、バスでJR奈良駅経由で帰った

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コメント 2

mamu7010

 秋篠川沿い公園で昼食って良いですネ。
薬師寺⇔唐招提寺、特に唐招提寺が大好きです。
平城宮跡・朱雀門&朱雀門前広場、も、良いですね。
ハイキング気分満喫です。

by mamu7010 (2018-10-28 20:28) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
朱雀門でのイベントで沖縄舞踊もやってたが此れは、
見逃してしまい、残念だった。音楽は大極殿の方へも
聞こえてて朱雀門へ戻るのと演舞が終わるのが一緒だった。
by taharas (2018-10-29 01:09) 

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