7月14日の奈良の美味い酒 奈良豊澤酒造「豊祝」
7月16日 7月14日の奈良の美味い酒 奈良豊澤酒造「豊祝」
近鉄駅フリーハイキング 歩程約7㎞
今回の冷や冷や夏吞みハイキングには、3名で参加、ゴールでのハイキング参加者は693名。
暑かったが「豊祝」美味しかった!!此の日の私の万歩計は、17480歩で約12.9km・・・
知人達とはバスで別れて、私はJR奈良駅で先にバスを下りて、知人二人は近鉄奈良駅へ。
喪中なので神社参拝はせず、神社は鳥居を撮るのみにして、二人を待つ・・・
コース
天理駅(受付9:30~10:00)~祝田神社~浄土院~和邇下神社~和爾坐赤坂比古神社~善
福寺~八坂神社・窪之庄城跡~八坂神社~奈良豊澤酒造・「豊祝」試飲~公園に戻り昼食~
上三橋バス停~ビックリドンキーで涼んで~シャープ前バス停~JR奈良駅&近鉄奈良駅
志都美駅
天理駅(受付・スタート)
祝田神社(はうりたじんじゃ)・・・なかなか読めない?
天理駅の北に840mの所にある田部町に鎮座の古い神社。御祭神は豊受大神。
式内社・祝田神社に比定されている古社だが、創祀年代、および由緒は不詳。
また「石上布留神宮抄」には、「祝田神殿一座在田村 神宮坤凡二十余町田村ノ後宮ニ坐ス」
とあり、石上神宮の西南2Kmほどの田村(現在の田町)の地が、祝田神殿の跡であるとも、
田村は田部の誤記で、田部鎮座の当社が式内社であるとも考えられているようだ。
さらに祝田神殿の今木大神が、延暦元年(782)十一月、従四位上に叙され、山城国平野神
社に遷され、第一殿に祀られたという説もあるらしい。現在の祭神は豊受大神だが、以前は
日本武尊であるとも考えられており、明治までは天満宮とも称されていたらしい。
浄土院
「浄土宗鎮西派 福田山 往生寺おうじょうじ 浄土院じょうどいん」です。
本尊は「阿弥陀如来立像」ということで、創立等の詳細は不明だそうです。
この道は「上ツ道」だそうで、平城京へいじょうきょうと飛鳥京(藤原宮)を結ぶ官道であった
ということで、人々の往来もかなりあったことでしょう。歴史の積み上げがかなり存在してる。
法念上人の幼年時代 勢至丸像
※法念上人
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代
初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、
専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できる
という専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空
(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚さ
れ、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照
大師・和順大師・法爾大師である。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称
名念仏の元祖と称される。 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
※浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付
ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖
人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
街道筋の
和邇下神社の大鳥居、此処を通らないと先へ進めない
和邇下神社
櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、東の治道山に鎮座、寿永2年
(1183)藤原清輔の弟顕昭(けんしょう)が著わした『柿本朝臣勘文』によると、「清輔が語って
いうに、大和国へ下向した時、古老から聞いたが、添上郡石上村の傍らに社があり、春道
社という。その中に寺があって柿本寺といい、人丸の堂である。その前の田の中に小塚が
あって人丸墓という」意味の記事があり、この記事により石上村の付近に治道の森があり、
治道社(春道社)と柿本寺があったことがわかる。『東大寺要録』には、「神護景雲3年(769)
東大寺領の櫟庄に水を引くために、高瀬川の水路を今の参道に沿った線に移し、道も新し
く、まっすぐに造られた。
この社は東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて櫟本地方にいた豪族の
氏神であったが、今は櫟本の鎮守である。
御祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀っているので牛頭天王社ともいわれ、ここに建て
られた柿本寺との関係で柿本上宮ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社に当
ると考証されて社名を和爾下神社と定められた。
和爾坐赤坂比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ )
「和尓坐赤坂比古神社」とは、和爾に鎮座する、和珥の坂の男神を祀る社ということ。
当社は横穴式古墳の上に鎮座しているとも伝えられている。また、当初は和爾氏の同族・
小野氏の氏寺である願興寺(廃寺、当社の東数百mに寺跡)近くに有ったとも伝えられる。
創祀年代は不詳。 和爾氏の氏神として成立し、式内社・和尓坐赤坂比古神社に比定され
ている古社。神亀元年(724)以前から神戸が与えられたという添上郡屈指の大社であり、
三代実録にも「従五位下和爾赤坂彦神」と記載され、延喜の制においても、大社に指定さ
れている神社。
『日本書紀』の神武天皇即位前年の箇所に「和珥の坂下に居勢の祝(はふり)という者が
いる」とあり、崇神天皇十年に武埴安彦の謀反を討つために大彦命が派遣され「和珥の坂
に到着した」とあり、さらに大彦命と和珥氏の祖・彦国葺が派遣され忌瓮(神祭りに用いる
酒などを入れる容器)を和珥の武鐰(すき)坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って
戦ったとある、和珥の坂、和珥の武鐰坂は、当社の赤坂のことらしい。
善福寺・・・浄土宗知恩院 舎利山 善福寺
浄土宗知恩院 舎利山 善福寺です。創建は1477年で、14世助阿上人を開基としています。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は国の重要文化財に指定されています。仏像拝観は志納前
に申込みが必要です。無縁仏の墓石がたくさん集められていて、中には室町時代の石仏
などもあります。すぐ近くに和爾坐赤坂比古神社があり、門の側に「和邇坂下伝承の地」の
碑が建てられています。落ち着いた佇まいの静かなお寺なので、時間を忘れてゆっくり楽
しむことができます。
「伝・山の辺の道」「サムライ街道」を歩いて、左折れして
八坂神社・窪之庄城跡
窪之庄城跡・・・
JR桜井線の帯解駅エリアの城塞群のひとつ窪之庄城。駅東側にある八坂神社(駅から
歩くと一つ目に出てくる八坂神社は関係ありません)が城跡で、明瞭な遺構が残る中世・
戦国の城跡です。 日本城郭大系によると築城時期は室町時代とされ、窪城氏の城塞
だったと記されています。
窪城氏は大乗院方衆徒の豪族であったそうですが、周りを強者に囲まれていたようで、
筒井氏、成身院氏、十市氏、古市氏らそれぞれと縁戚を持ち、保身に務めていたと記さ
れています。
応仁の乱の後、古市氏との関係をより深めると、筒井氏との関係が悪化し、永正3(15
06)年に窪之庄城は焼かれ一時、窪城氏は没落したそうですが、元亀2(1571)年には
筒井氏の与力として新興勢力の松永久秀と争うまでに復活。再興した窪之庄城を守っ
たとされています。
現在は八坂神社となっており、社のある方が東殿と呼ばれる郭。その西側には西殿と
される、両方にそれぞれ西氏と、本家の窪城氏がいたとされるそうです。
この東西両郭の間には明瞭かつ、なかなかの幅と深さを持つ濠跡が現存しています。
さらに神社を取り囲むように巨大な土塁。さらにその外側、特に北側にはこれも明瞭な
濠後が残ります。この濠跡は町中の城としては十分な見どころです。
石碑や解説板(由緒書ふくめ)は存在していません。
八坂神社(山町)・円満寺(算額で有名)
喪中で神社参拝出来ないので鳥居だけを・・・
上街道・帯解寺周辺の町並みからは少し離れた位置にある八坂神社の入り口。神社の
近くには、大和高原へと向かって進む「五ヶ谷道」方面と円照寺「山村御殿」方面へと向
かう道が分岐する地点があり、かなり古い道標が現在も残されています。
※円満寺
神社の入り口から参道を進み、広い空間に出ると東側に本殿が見えます。なお、算額で
有名な「円満寺」のお堂は、この本殿と向かい合わせになるように広場の西側にひっそり
と佇んでいるそうです・・・・次回には是非立ち寄って見たいものです。
もうすぐ
豊澤酒造
奈良豊澤酒造・「豊祝」試飲
明治元年(1868年)豊澤儀助が大阪玉造にて酒卸業を創業。明治20年頃(1887年)酒造
業に進出し、灘(神戸市)、伏見(京都市)、奈良、泉南尾崎(大阪府)、里庄(岡山県)で清
酒酒造業を始める。昭和10年頃(1935年)二代目の儀三郎が本社を西城戸町に残し、酒
蔵を現在の酒造場のある今市町に移転。昭和16年頃(1941年)戦時統制経済体制の為
に、酒造業者の整理統合が進められ、泉南の酒蔵はこの時に廃業。
伏見と灘は奈良の豊澤酒造本店に集約される。昭和20年以降(1945年)伏見(本家)が豊
澤本店として独立。灘豊澤酒造と奈良豊澤酒造が個人企業として独立。 3代目の儀雄は、
戦後の極度の食糧不足のなか、配給されるわずかな米で酒造りを行い、酒蔵を守ってい
た。昭和30年(1955年)戦前に経営していた清酒の卸業を廃止。 10月、個人企業を改組
して、奈良豊澤酒造株式会社を設立。昭和54年(1979年)後に4代目となる安男(当時、
専務)が杜氏を求めて但馬へ。そこで、但馬杜氏の藤沢忠治と出会い、奈良豊澤酒造に
招く。昭和59年(1984年)4代目の安男が代表取締役社長に就任。平成 2年(1990年)平
成2年度全国新酒鑑評会で「大吟醸 豊祝」が金賞受賞。
この年より連続5年(平成3年度、4年度、5年度、6年度)、金賞を受賞。
公園に戻り昼食
上三橋バス停~ビックリドンキーで涼んで~シャープ前バス停からバスに乗り
バスで二人と別れて私は、JR奈良駅へ、彼らは近鉄奈良駅へ・・・
おまけ
7月15日の我が家の琉球朝顔
近鉄駅フリーハイキング 歩程約7㎞
今回の冷や冷や夏吞みハイキングには、3名で参加、ゴールでのハイキング参加者は693名。
暑かったが「豊祝」美味しかった!!此の日の私の万歩計は、17480歩で約12.9km・・・
知人達とはバスで別れて、私はJR奈良駅で先にバスを下りて、知人二人は近鉄奈良駅へ。
喪中なので神社参拝はせず、神社は鳥居を撮るのみにして、二人を待つ・・・
コース
天理駅(受付9:30~10:00)~祝田神社~浄土院~和邇下神社~和爾坐赤坂比古神社~善
福寺~八坂神社・窪之庄城跡~八坂神社~奈良豊澤酒造・「豊祝」試飲~公園に戻り昼食~
上三橋バス停~ビックリドンキーで涼んで~シャープ前バス停~JR奈良駅&近鉄奈良駅
志都美駅
天理駅(受付・スタート)
祝田神社(はうりたじんじゃ)・・・なかなか読めない?
天理駅の北に840mの所にある田部町に鎮座の古い神社。御祭神は豊受大神。
式内社・祝田神社に比定されている古社だが、創祀年代、および由緒は不詳。
また「石上布留神宮抄」には、「祝田神殿一座在田村 神宮坤凡二十余町田村ノ後宮ニ坐ス」
とあり、石上神宮の西南2Kmほどの田村(現在の田町)の地が、祝田神殿の跡であるとも、
田村は田部の誤記で、田部鎮座の当社が式内社であるとも考えられているようだ。
さらに祝田神殿の今木大神が、延暦元年(782)十一月、従四位上に叙され、山城国平野神
社に遷され、第一殿に祀られたという説もあるらしい。現在の祭神は豊受大神だが、以前は
日本武尊であるとも考えられており、明治までは天満宮とも称されていたらしい。
浄土院
「浄土宗鎮西派 福田山 往生寺おうじょうじ 浄土院じょうどいん」です。
本尊は「阿弥陀如来立像」ということで、創立等の詳細は不明だそうです。
この道は「上ツ道」だそうで、平城京へいじょうきょうと飛鳥京(藤原宮)を結ぶ官道であった
ということで、人々の往来もかなりあったことでしょう。歴史の積み上げがかなり存在してる。
法念上人の幼年時代 勢至丸像
※法念上人
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代
初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、
専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できる
という専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空
(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚さ
れ、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照
大師・和順大師・法爾大師である。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称
名念仏の元祖と称される。 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
※浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付
ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖
人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
街道筋の
和邇下神社の大鳥居、此処を通らないと先へ進めない
和邇下神社
櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、東の治道山に鎮座、寿永2年
(1183)藤原清輔の弟顕昭(けんしょう)が著わした『柿本朝臣勘文』によると、「清輔が語って
いうに、大和国へ下向した時、古老から聞いたが、添上郡石上村の傍らに社があり、春道
社という。その中に寺があって柿本寺といい、人丸の堂である。その前の田の中に小塚が
あって人丸墓という」意味の記事があり、この記事により石上村の付近に治道の森があり、
治道社(春道社)と柿本寺があったことがわかる。『東大寺要録』には、「神護景雲3年(769)
東大寺領の櫟庄に水を引くために、高瀬川の水路を今の参道に沿った線に移し、道も新し
く、まっすぐに造られた。
この社は東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて櫟本地方にいた豪族の
氏神であったが、今は櫟本の鎮守である。
御祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀っているので牛頭天王社ともいわれ、ここに建て
られた柿本寺との関係で柿本上宮ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社に当
ると考証されて社名を和爾下神社と定められた。
和爾坐赤坂比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ )
「和尓坐赤坂比古神社」とは、和爾に鎮座する、和珥の坂の男神を祀る社ということ。
当社は横穴式古墳の上に鎮座しているとも伝えられている。また、当初は和爾氏の同族・
小野氏の氏寺である願興寺(廃寺、当社の東数百mに寺跡)近くに有ったとも伝えられる。
創祀年代は不詳。 和爾氏の氏神として成立し、式内社・和尓坐赤坂比古神社に比定され
ている古社。神亀元年(724)以前から神戸が与えられたという添上郡屈指の大社であり、
三代実録にも「従五位下和爾赤坂彦神」と記載され、延喜の制においても、大社に指定さ
れている神社。
『日本書紀』の神武天皇即位前年の箇所に「和珥の坂下に居勢の祝(はふり)という者が
いる」とあり、崇神天皇十年に武埴安彦の謀反を討つために大彦命が派遣され「和珥の坂
に到着した」とあり、さらに大彦命と和珥氏の祖・彦国葺が派遣され忌瓮(神祭りに用いる
酒などを入れる容器)を和珥の武鐰(すき)坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って
戦ったとある、和珥の坂、和珥の武鐰坂は、当社の赤坂のことらしい。
善福寺・・・浄土宗知恩院 舎利山 善福寺
浄土宗知恩院 舎利山 善福寺です。創建は1477年で、14世助阿上人を開基としています。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は国の重要文化財に指定されています。仏像拝観は志納前
に申込みが必要です。無縁仏の墓石がたくさん集められていて、中には室町時代の石仏
などもあります。すぐ近くに和爾坐赤坂比古神社があり、門の側に「和邇坂下伝承の地」の
碑が建てられています。落ち着いた佇まいの静かなお寺なので、時間を忘れてゆっくり楽
しむことができます。
「伝・山の辺の道」「サムライ街道」を歩いて、左折れして
八坂神社・窪之庄城跡
窪之庄城跡・・・
JR桜井線の帯解駅エリアの城塞群のひとつ窪之庄城。駅東側にある八坂神社(駅から
歩くと一つ目に出てくる八坂神社は関係ありません)が城跡で、明瞭な遺構が残る中世・
戦国の城跡です。 日本城郭大系によると築城時期は室町時代とされ、窪城氏の城塞
だったと記されています。
窪城氏は大乗院方衆徒の豪族であったそうですが、周りを強者に囲まれていたようで、
筒井氏、成身院氏、十市氏、古市氏らそれぞれと縁戚を持ち、保身に務めていたと記さ
れています。
応仁の乱の後、古市氏との関係をより深めると、筒井氏との関係が悪化し、永正3(15
06)年に窪之庄城は焼かれ一時、窪城氏は没落したそうですが、元亀2(1571)年には
筒井氏の与力として新興勢力の松永久秀と争うまでに復活。再興した窪之庄城を守っ
たとされています。
現在は八坂神社となっており、社のある方が東殿と呼ばれる郭。その西側には西殿と
される、両方にそれぞれ西氏と、本家の窪城氏がいたとされるそうです。
この東西両郭の間には明瞭かつ、なかなかの幅と深さを持つ濠跡が現存しています。
さらに神社を取り囲むように巨大な土塁。さらにその外側、特に北側にはこれも明瞭な
濠後が残ります。この濠跡は町中の城としては十分な見どころです。
石碑や解説板(由緒書ふくめ)は存在していません。
八坂神社(山町)・円満寺(算額で有名)
喪中で神社参拝出来ないので鳥居だけを・・・
上街道・帯解寺周辺の町並みからは少し離れた位置にある八坂神社の入り口。神社の
近くには、大和高原へと向かって進む「五ヶ谷道」方面と円照寺「山村御殿」方面へと向
かう道が分岐する地点があり、かなり古い道標が現在も残されています。
※円満寺
神社の入り口から参道を進み、広い空間に出ると東側に本殿が見えます。なお、算額で
有名な「円満寺」のお堂は、この本殿と向かい合わせになるように広場の西側にひっそり
と佇んでいるそうです・・・・次回には是非立ち寄って見たいものです。
もうすぐ
豊澤酒造
奈良豊澤酒造・「豊祝」試飲
明治元年(1868年)豊澤儀助が大阪玉造にて酒卸業を創業。明治20年頃(1887年)酒造
業に進出し、灘(神戸市)、伏見(京都市)、奈良、泉南尾崎(大阪府)、里庄(岡山県)で清
酒酒造業を始める。昭和10年頃(1935年)二代目の儀三郎が本社を西城戸町に残し、酒
蔵を現在の酒造場のある今市町に移転。昭和16年頃(1941年)戦時統制経済体制の為
に、酒造業者の整理統合が進められ、泉南の酒蔵はこの時に廃業。
伏見と灘は奈良の豊澤酒造本店に集約される。昭和20年以降(1945年)伏見(本家)が豊
澤本店として独立。灘豊澤酒造と奈良豊澤酒造が個人企業として独立。 3代目の儀雄は、
戦後の極度の食糧不足のなか、配給されるわずかな米で酒造りを行い、酒蔵を守ってい
た。昭和30年(1955年)戦前に経営していた清酒の卸業を廃止。 10月、個人企業を改組
して、奈良豊澤酒造株式会社を設立。昭和54年(1979年)後に4代目となる安男(当時、
専務)が杜氏を求めて但馬へ。そこで、但馬杜氏の藤沢忠治と出会い、奈良豊澤酒造に
招く。昭和59年(1984年)4代目の安男が代表取締役社長に就任。平成 2年(1990年)平
成2年度全国新酒鑑評会で「大吟醸 豊祝」が金賞受賞。
この年より連続5年(平成3年度、4年度、5年度、6年度)、金賞を受賞。
公園に戻り昼食
上三橋バス停~ビックリドンキーで涼んで~シャープ前バス停からバスに乗り
バスで二人と別れて私は、JR奈良駅へ、彼らは近鉄奈良駅へ・・・
おまけ
7月15日の我が家の琉球朝顔
2018-07-16 12:30
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コメント(2)
この陽気でも693名ものツワモノがまずは素晴らしい。
この時期神社仏閣は、日陰を作って助けてくれてますネ。
奈良の美味い酒の感想は?
by mamu7010 (2018-07-20 07:44)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
喪中の為、神社に入れないのが悩みの種、鳥居の外から
眺めるだけにしていますが、日陰で涼みたいよね?49日が
すむまでは神社には参拝しないと決めて。明日は明日香へ。
勿論「豊祝」のお酒は美味しくてほろ酔い気分になりましたよ。
by taharas (2018-07-21 21:56)