6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-2
7月7日 6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-2
てくてくマップ大阪⑫歩程(9.2㎞)
此の日は、3名で昼飲み会ハイキングに行って来ました。我々の昼飲み会ハイキングとは、
阿倍野の居酒屋で15:00~17:00の昼飲み会に、此の時期は銭湯で汗を流して、冬場は、
身体を温めて臨めるようにする事、身体をさっぱり綺麗にして飲み会に参加?・・・・
今回は、阿倍野で行きつけの銭湯が2軒とも定休日となった為、新規に銭湯を開発?
環状線の寺田町駅まえに天竜湯なる銭湯を見つけてチャレンジすることに・・・
コースは近鉄ハイキングのてくてマップ大阪12を少し距離を短く変更して対応
近鉄八尾駅(スタンプ)~常光寺~成法せせらぎの小径~長瀬川沿いの公園(省休止)~
安中新田会所跡~~渋川神社~植松観音堂~植松地蔵尊・常夜灯~物部守屋の墓~大
聖勝軍寺~鏑矢塚~楠本神社・守屋首洗い池~柏原船と使い場~防災公園(昼食)~楠
本神社~八尾空港~弓削神社(西)~JR志紀駅(約9.2㎞)
志紀駅13:22 久宝寺13:27 13:30 天王寺13:35 13:40 寺田町駅13:41 6分天竜湯
寺田町駅で K場さんと待ち合わせて4名で天竜湯へ、中々良い所又行きたい銭湯でした。
天竜湯 14:35 →寺田町駅14:44 (14:39) 天王寺駅14:46 (14:41)
14:50分に天王寺駅の何時もの場所で待合せて 居酒屋 甘太郎へ GO!
6月28日(木) 昼飲み会15:00~17:00 6名参加 ・K場・S藤・M吉・A座・N西・T原
此の日の私の万歩計は、22402歩で約16.5km歩いたことになりました。
志都美駅~
近鉄下田駅
近鉄八尾駅(スタンプ)
此処で3名合流してハイキングスタート
アーケード商店街
常光寺(じょうこうじ)
常光寺は、大阪府八尾市本町にある 臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院
の末寺で、山号は初日山。 通称は八尾地蔵尊。
本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年 - 824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。
山門脇に大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑がある。また、境内に大坂
の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられている。当初は「新堂寺」と称していた。南
北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃した。至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継
により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建した。室町時代に足利義満から、自
筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められた。(寺宝として現存。)
大坂の役において、付近は激戦地となったが、本寺は徳川方の保護を受けた。 徳川
方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並
べて「首実検」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられ
た。 おびただしい血痕がついていたため、「血天井」と称された。
八尾市役所前の河内音頭踊り像?
環山楼・・・八尾市指定文化財
環山楼は、江戸時代中期に八尾寺内町の豪商であった石田善右衛門利清が設けた
私塾です。当時は学芸教育が盛んで、大阪の懐徳堂をはじめとする学塾が数多く開
かれていました。
「環山楼」の名前は、当地に招かれて講義を行った京都堀川の儒学者伊藤東涯(いと
うとうがい)が、高安・二上・金剛の山々の景観に取り囲まれている様子から命名した
ものです。
市内には、麟角堂(りんかくどう)や簷葡舎(えんほしゃ)などの学塾がありましたが、
環山楼は現存する唯一のもので、現在の場所に移築保存して公開しています。
成法せせらぎの小径へむかう
成法せせらぎの小径
大阪府の竜華水みらいセンターの下水道高度処理水利活用によるもので、八尾市制
施行60周年記念事業として整備された「成法せせらぎの小径(せいほうせせらぎのこ
みち)」周辺のせせらぎ水路に利用されています。
幼稚園児たちがザリガニ釣り
長瀬川を渡る
長瀬川沿いの公園(少休止)
安中新田会所跡(旧植田家住宅)
1704年の大和川付け替え後、旧川床を利用して多くの新田が開発されました。そのう
ちのひとつが安中新田です。柏原市の安福寺が開発の中心であったために「安中新
田」という名がついたと言われています。開発から50年ほどたった頃、安福寺住職の
類縁にあたる植田家が管理を任されることになり、その後150年の長きにわたって新
田の支配人を勤めました。
植田家が居住していた屋敷は、会所としても使用されていました。「会所」とは新田の
管理に使われた建物のことで、地域の寄り合いの場も兼ねていました。八尾市内の
ほかの新田会所(山本新田会所、柏村新田会所)が現存しない一方で、植田家の屋
敷は増改築を繰り返しながらも、昭和60年代まで実際に使用されていました。修復・
整備を経て、書画や工芸品、河内木綿などの所蔵品とともに旧植田家住宅は一般に
公開されています。
渋川神社
天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、菅原大神を祭神としている。
創建の年月は不明。 かつて飛鳥時代に本地域を本拠地としていた物部守屋の渋河
の家の跡ともいわれている。もとは旧大和川の東側の字川向にあったが、天文3年
(1533年)の大洪水で境内全域を流失。 この時、浮島神社は数kmほど北の茨田郡
新田村に漂着した。
その後元亀2年(1572年)、お旅所のあった現在地に再建された。境内には、大阪府
天然記念物のクスノキを含め数本の大きな樹木がそびえている。
※物部守屋
物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃
仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、
物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。
敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
植松観音堂
植松地蔵尊・常夜灯
物部守屋の墓
※物部守屋
物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏
派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部
氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。
敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉
する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。守屋と
中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起き
たと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴
き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等
ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人
の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)
の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
疫病は更に激しくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可
を奏上した。天皇は馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。 ・・・・・・
馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸
皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の
守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、
守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退
却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四
天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓
った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺し
た。寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、守屋の軍は敗北して逃げ散
った。
此処までは、
6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-07-07
此処では、続きの聖徳太子古戦場~の詳細を掲載します。
聖徳太子古戦場
物部守屋は強かった。蘇我馬子、聖徳太子軍は物部守屋の軍勢に三度大敗。
このままでは勝てないと思った聖徳太子は願掛けをするんです。
部下四将軍に四天王の像を刻ませたと。そして「いまもし我をして敵に勝たしめば、
かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」 と 日本書紀。
聖徳太子古戦場・大聖勝軍寺
大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)
大聖勝軍寺は、大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。
山号は神妙椋樹山。
開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、
叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。
地元では単に「太子堂」と呼ばれている。
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝た
しめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願
して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市
天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。594年、推古天皇より現
在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺
の称号を贈られ、勅願寺に定められる。
鏑矢塚
用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇
我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。
稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、
四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子ら
は勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺
にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖
勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形
をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考
えるうえで重要です。
楠本神社・守屋首洗い池
延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 樟本神社三座 並大 月次新嘗」とある式内社。
延喜式当時は一社だったと思われるが、今、社名・祭神を同じくする神社が、八尾市木
の本・南木ノ本・北木ノ本の3ヶ所に鎮座する(以下、木の本社・南木の本社・北木の本
社と記す)。当社は延喜式に記載されている榎本三座の一にして、創建の年代は詳か
でないが、用明天皇の御代(585--87)、物部守屋公が本拠地である稲村城(現光連寺
敷地-当社の南約200mにあり)の守護神として、一族の祖神と崇めていた布都大神
を奉祀されたものと伝える」とある(他の2社の由緒も、ほとんど同意)。
物部守屋云々とは、日本書紀・崇峻天皇2年(588)秋七月条にある、「蘇我馬子大臣は、
聖徳太子以下の諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。・・・
(大臣らは)軍兵を率いて志紀郡から守屋の澁河の家に至った。大連は自ら子弟と奴の
兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を造って戦った。大連は衣摺の地の榎の木股に登っ
て、上から眺め射かけること雨のようであった。 ・・・」(大意)
いずれにしろ、当地域一帯は物部氏特に物部守屋との関係が深く、物部本家の滅亡の
地が当地辺りであった可能性は強い。
物部守屋首洗池
境内に入ってすぐ右に小さな池があり、その前に“守屋首洗池”(だいぶ摩耗している)と
刻した自然石の碑が立っている。当社社務所の壁に貼られた案内には、「(蘇我馬子ら
が物部守屋を攻めたとき)、聖徳太子が迹見赤擣に鏑矢をもって、物部守屋を射させた
ところ、その矢が守屋の胸に当たり、秦河勝がその首をとって、この池で洗って聖徳太子
の見参に入れたという」との伝承を記している。
柏原船と使い場・・・説明版が全く読めない
防災公園(昼食)~
佛蓮寺・楠本神社
稲城跡
水路
八尾空港
ヘリが2基とまっていた
弓削神社(西)
弓削神社(ゆげじんじゃ)は、大阪府八尾市にある神社。 付近に勢力を保持していた
物部氏の一族である弓削氏の氏神である。
八尾の弓削神社は、JR志紀駅・長瀬川を挟んで2箇所あり、二社一対で二座にあてて
いる。両社とも式内大社である。
800年ごろの創建といわれる。当地は弓削氏の一族である高僧道鏡の出身地であるが、
弓削神社は彼の没後の創建であり、直接関わりはない。
かつて東西の社殿の間に久宝寺川(旧大和川)が流れていた。度重なる水害で幾度も
流失の被害に遭っていた。
JR志紀駅(約9.2㎞)→ 環状線
寺田町駅~天竜湯
天竜湯の一番風呂に入って満足満足・・・
寺田町駅
おまけ
飲み会の帰りにJRのホームから
てくてくマップ大阪⑫歩程(9.2㎞)
此の日は、3名で昼飲み会ハイキングに行って来ました。我々の昼飲み会ハイキングとは、
阿倍野の居酒屋で15:00~17:00の昼飲み会に、此の時期は銭湯で汗を流して、冬場は、
身体を温めて臨めるようにする事、身体をさっぱり綺麗にして飲み会に参加?・・・・
今回は、阿倍野で行きつけの銭湯が2軒とも定休日となった為、新規に銭湯を開発?
環状線の寺田町駅まえに天竜湯なる銭湯を見つけてチャレンジすることに・・・
コースは近鉄ハイキングのてくてマップ大阪12を少し距離を短く変更して対応
近鉄八尾駅(スタンプ)~常光寺~成法せせらぎの小径~長瀬川沿いの公園(省休止)~
安中新田会所跡~~渋川神社~植松観音堂~植松地蔵尊・常夜灯~物部守屋の墓~大
聖勝軍寺~鏑矢塚~楠本神社・守屋首洗い池~柏原船と使い場~防災公園(昼食)~楠
本神社~八尾空港~弓削神社(西)~JR志紀駅(約9.2㎞)
志紀駅13:22 久宝寺13:27 13:30 天王寺13:35 13:40 寺田町駅13:41 6分天竜湯
寺田町駅で K場さんと待ち合わせて4名で天竜湯へ、中々良い所又行きたい銭湯でした。
天竜湯 14:35 →寺田町駅14:44 (14:39) 天王寺駅14:46 (14:41)
14:50分に天王寺駅の何時もの場所で待合せて 居酒屋 甘太郎へ GO!
6月28日(木) 昼飲み会15:00~17:00 6名参加 ・K場・S藤・M吉・A座・N西・T原
此の日の私の万歩計は、22402歩で約16.5km歩いたことになりました。
志都美駅~
近鉄下田駅
近鉄八尾駅(スタンプ)
此処で3名合流してハイキングスタート
アーケード商店街
常光寺(じょうこうじ)
常光寺は、大阪府八尾市本町にある 臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院
の末寺で、山号は初日山。 通称は八尾地蔵尊。
本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年 - 824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。
山門脇に大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑がある。また、境内に大坂
の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられている。当初は「新堂寺」と称していた。南
北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃した。至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継
により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建した。室町時代に足利義満から、自
筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められた。(寺宝として現存。)
大坂の役において、付近は激戦地となったが、本寺は徳川方の保護を受けた。 徳川
方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並
べて「首実検」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられ
た。 おびただしい血痕がついていたため、「血天井」と称された。
八尾市役所前の河内音頭踊り像?
環山楼・・・八尾市指定文化財
環山楼は、江戸時代中期に八尾寺内町の豪商であった石田善右衛門利清が設けた
私塾です。当時は学芸教育が盛んで、大阪の懐徳堂をはじめとする学塾が数多く開
かれていました。
「環山楼」の名前は、当地に招かれて講義を行った京都堀川の儒学者伊藤東涯(いと
うとうがい)が、高安・二上・金剛の山々の景観に取り囲まれている様子から命名した
ものです。
市内には、麟角堂(りんかくどう)や簷葡舎(えんほしゃ)などの学塾がありましたが、
環山楼は現存する唯一のもので、現在の場所に移築保存して公開しています。
成法せせらぎの小径へむかう
成法せせらぎの小径
大阪府の竜華水みらいセンターの下水道高度処理水利活用によるもので、八尾市制
施行60周年記念事業として整備された「成法せせらぎの小径(せいほうせせらぎのこ
みち)」周辺のせせらぎ水路に利用されています。
幼稚園児たちがザリガニ釣り
長瀬川を渡る
長瀬川沿いの公園(少休止)
安中新田会所跡(旧植田家住宅)
1704年の大和川付け替え後、旧川床を利用して多くの新田が開発されました。そのう
ちのひとつが安中新田です。柏原市の安福寺が開発の中心であったために「安中新
田」という名がついたと言われています。開発から50年ほどたった頃、安福寺住職の
類縁にあたる植田家が管理を任されることになり、その後150年の長きにわたって新
田の支配人を勤めました。
植田家が居住していた屋敷は、会所としても使用されていました。「会所」とは新田の
管理に使われた建物のことで、地域の寄り合いの場も兼ねていました。八尾市内の
ほかの新田会所(山本新田会所、柏村新田会所)が現存しない一方で、植田家の屋
敷は増改築を繰り返しながらも、昭和60年代まで実際に使用されていました。修復・
整備を経て、書画や工芸品、河内木綿などの所蔵品とともに旧植田家住宅は一般に
公開されています。
渋川神社
天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、菅原大神を祭神としている。
創建の年月は不明。 かつて飛鳥時代に本地域を本拠地としていた物部守屋の渋河
の家の跡ともいわれている。もとは旧大和川の東側の字川向にあったが、天文3年
(1533年)の大洪水で境内全域を流失。 この時、浮島神社は数kmほど北の茨田郡
新田村に漂着した。
その後元亀2年(1572年)、お旅所のあった現在地に再建された。境内には、大阪府
天然記念物のクスノキを含め数本の大きな樹木がそびえている。
※物部守屋
物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃
仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、
物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。
敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
植松観音堂
植松地蔵尊・常夜灯
物部守屋の墓
※物部守屋
物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏
派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部
氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。
敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉
する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。守屋と
中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起き
たと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴
き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等
ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人
の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)
の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
疫病は更に激しくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可
を奏上した。天皇は馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。 ・・・・・・
馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸
皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の
守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、
守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退
却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四
天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓
った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺し
た。寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、守屋の軍は敗北して逃げ散
った。
此処までは、
6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-07-07
此処では、続きの聖徳太子古戦場~の詳細を掲載します。
聖徳太子古戦場
物部守屋は強かった。蘇我馬子、聖徳太子軍は物部守屋の軍勢に三度大敗。
このままでは勝てないと思った聖徳太子は願掛けをするんです。
部下四将軍に四天王の像を刻ませたと。そして「いまもし我をして敵に勝たしめば、
かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」 と 日本書紀。
聖徳太子古戦場・大聖勝軍寺
大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)
大聖勝軍寺は、大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。
山号は神妙椋樹山。
開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、
叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。
地元では単に「太子堂」と呼ばれている。
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝た
しめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願
して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市
天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。594年、推古天皇より現
在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺
の称号を贈られ、勅願寺に定められる。
鏑矢塚
用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇
我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。
稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、
四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子ら
は勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺
にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖
勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形
をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考
えるうえで重要です。
楠本神社・守屋首洗い池
延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 樟本神社三座 並大 月次新嘗」とある式内社。
延喜式当時は一社だったと思われるが、今、社名・祭神を同じくする神社が、八尾市木
の本・南木ノ本・北木ノ本の3ヶ所に鎮座する(以下、木の本社・南木の本社・北木の本
社と記す)。当社は延喜式に記載されている榎本三座の一にして、創建の年代は詳か
でないが、用明天皇の御代(585--87)、物部守屋公が本拠地である稲村城(現光連寺
敷地-当社の南約200mにあり)の守護神として、一族の祖神と崇めていた布都大神
を奉祀されたものと伝える」とある(他の2社の由緒も、ほとんど同意)。
物部守屋云々とは、日本書紀・崇峻天皇2年(588)秋七月条にある、「蘇我馬子大臣は、
聖徳太子以下の諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。・・・
(大臣らは)軍兵を率いて志紀郡から守屋の澁河の家に至った。大連は自ら子弟と奴の
兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を造って戦った。大連は衣摺の地の榎の木股に登っ
て、上から眺め射かけること雨のようであった。 ・・・」(大意)
いずれにしろ、当地域一帯は物部氏特に物部守屋との関係が深く、物部本家の滅亡の
地が当地辺りであった可能性は強い。
物部守屋首洗池
境内に入ってすぐ右に小さな池があり、その前に“守屋首洗池”(だいぶ摩耗している)と
刻した自然石の碑が立っている。当社社務所の壁に貼られた案内には、「(蘇我馬子ら
が物部守屋を攻めたとき)、聖徳太子が迹見赤擣に鏑矢をもって、物部守屋を射させた
ところ、その矢が守屋の胸に当たり、秦河勝がその首をとって、この池で洗って聖徳太子
の見参に入れたという」との伝承を記している。
柏原船と使い場・・・説明版が全く読めない
防災公園(昼食)~
佛蓮寺・楠本神社
稲城跡
水路
八尾空港
ヘリが2基とまっていた
弓削神社(西)
弓削神社(ゆげじんじゃ)は、大阪府八尾市にある神社。 付近に勢力を保持していた
物部氏の一族である弓削氏の氏神である。
八尾の弓削神社は、JR志紀駅・長瀬川を挟んで2箇所あり、二社一対で二座にあてて
いる。両社とも式内大社である。
800年ごろの創建といわれる。当地は弓削氏の一族である高僧道鏡の出身地であるが、
弓削神社は彼の没後の創建であり、直接関わりはない。
かつて東西の社殿の間に久宝寺川(旧大和川)が流れていた。度重なる水害で幾度も
流失の被害に遭っていた。
JR志紀駅(約9.2㎞)→ 環状線
寺田町駅~天竜湯
天竜湯の一番風呂に入って満足満足・・・
寺田町駅
おまけ
飲み会の帰りにJRのホームから
2018-07-07 14:03
nice!(17)
コメント(2)
常光寺(八尾地蔵尊?)、ホントに立派に見えます。
聖徳太子vs物部守屋戦いの跡地かぁ~、思いを馳せます。
迹見赤擣と鏑矢は、恥ずかしながら初めての話です。
新規銭湯開発、良かったですネ!。
by mamu7010 (2018-07-08 09:10)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
今月はもう一度八尾市内を歩こうと計画しています。
寺田町駅近の天竜湯は良かったですよ、一番風呂だった
せいか?とても清潔そうで露天風呂やジェットバス等も有り・・・
ドリンクバー並の?冷飲料水のサーバーも設置されてて。
銭湯巡りですか?聞かれて、銭湯巡りも良いかも知れない。
by taharas (2018-07-09 01:49)