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6月24日の古の雅と季節あふれる奈良公園散策-2

7月5日        6月24日の古の雅と季節あふれる奈良公園散策-2
                 JRふれあいハイキング 歩程約6㎞ 
此の日は、K場さんI田さんと3名でJRふれあいハイキングに参加予定でJR奈良駅前
で落ち合ったが、なら・観光ボランティアガイドには会えず、観光案内所で地図を貰って
3名で奈良公園散策に、此の日の私の万歩計は、22573歩で約16.7km歩いたことに。
コース
JR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅~奈良県里程元標・高札
~手力神社~興福寺・三重搭・北円堂・南円堂・五重搭~十三鐘~春日大社一之鳥居
~浮見堂~志賀直哉旧居~新薬師寺~若草山(昼食)~手向け山八幡神社・校倉造り
~三月堂・四月堂・二月堂~歴史的風土保存地区~大湯屋~大阪万博古河館遺産~
東大寺~氷室神社~猿沢池~
志都美駅
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JR奈良駅前
旧駅舎
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開化天皇陵
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※開化天皇(かいかてんのう)
開化天皇は、日本の第9代天皇。和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大
日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根
子日子大毘毘命」。
※『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えら
れる。綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』
『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天
皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間
の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、
極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに
天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られ
ること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある。

浄教寺
淨教寺(じょうきょうじ)は、奈良県奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の寺院
である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行
延と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛
元2年(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。
第6世の円誓には実子がなかったが、楠木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円
誓の養子となって空信と法名を授かり、第7世を継いだと伝わる。このため当寺では
「九耀菊水」を定紋に用いるようになったという。また北朝光明天皇の勅願所となり、
「称仏明院」の号を賜った。
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漢國神社(かんごうじんじゃ)
漢國神社は、園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦
名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神
社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が
園神を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等
が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神
社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名に
なったと伝える。貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請
し、皇室の守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは
矛盾している。
治承4年(1180年)兵火にかかり炎上。文治4年(1188年)に興福寺一乗院覚昭大僧正
の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。慶長年間になって、徳川家康より法蓮
村において知行田5反余りを寄付され、社殿の修理を加えた。
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境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国
から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林
浄因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合
祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
林浄因の命日である4月19日には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行わ
れ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けに
も無料で饅頭と抹茶がふるまわれる。
また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点
として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。

近鉄奈良駅
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奈良県里程元標・高札
木で出来た多数の立て札や柱が見られます。
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このうち太い木の柱で出来たものには、「奈良縣里程元標」と描かれており、これはかつ
て明治時代に日本国内の様々な「距離」を測る上での起点として各府県に設けられたも
のを復元したものとなっており、奈良から京都・大阪・伊勢方面への距離が記されていま
す。(なお、昔の元標自体は、実際の所はこの復元された元標からわずかに離れた場所
である近隣のコンビニの近くに建っていたとされ、その位置を示した印が歩道に刻印され
ています。)
現在では当たり前の存在である「奈良県」は、かつては明治に入ってから一時期「堺県」
「大阪府」の一部として合併され、「大和」エリアを司る自治体が消滅した時期がありまし
たが、この元標は、明治中期に「奈良県」がめでたく復活された際に設けられたものであ
り、奈良県民にとっては「奈良県独立の証」とも言える存在となっています。
高札
奈良縣里程元標の後ろに有る御高札場には奈良奉行の御触書を掲示する高札が置か
れていました

手力雄神社
奈良の三条通沿いに祀られる手力雄社。
手力雄神社(たぢからおじんじゃ)は春日大社の境外末社の位置付けです。春日大社に
は計61社の摂末社がありますが、その内の一つが橋本町に鎮座する手力雄神社です。
※天岩戸伝説
天照大神が天の岩屋戸に引き籠り、世界が真っ暗になってしまったという話。困った神々
が相談して、アメノウズメが胸もお腹も露わに踊り出すことになります。八百万の神々の
笑いに誘われてそっと外の様子をうかがった天照大神を、その怪力で引っ張り出したの
が天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。
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興福寺・三重搭・北円堂・南円堂・五重搭・・・興福寺HPより
三重塔
康治2年(1143)に崇徳(すとく)天皇の中宮(ちゅうぐう)が創建されましたが、治承
4年(1180)に被災し、間もなく再建されました。
北円堂(ほくえんどう)とともに興福寺最古の建物で、高さ19.1m、初層は方三間
で4.8m、本瓦(ほんがわら)葺き。
鎌倉時代の建物ですが、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の
建築様式を伝えます。
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北円堂
日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者
藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明(げんめい)太上天皇と元
正(げんしょう)天皇がお建てになりました。
伽藍(がらん)の中では西隅に位置しますが、ここは平城京を一望の下に見渡すこと
のできる一等地で、平城京造営の推進者であった不比等(ふひと)の霊をなぐさめる
最良の場所です。
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南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が
父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造
の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえい
ほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には
弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。
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五重搭
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標
です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后
がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変
(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろく
じょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょ
う)を安置していたと伝えられます。
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十三鐘
興福寺の南側の石垣に沿うて三条通をずっと上がっていくと、右側へだらだらと下った
ところに、菩提院大御堂というお堂がある。俗に十三鐘と呼ばれてる。
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※ならの民話・・・「十三鐘の石子詰め」という話です。
昔から、奈良の鹿は、神様のお使いやいうて、大切にされてきてんで。ずっと昔に、春日
神社の神さんが奈良に来るとき、鹿に乗ってきたんやて。 そんな尊い鹿を、もし殺しでも
したら、「石子詰めの刑」というて、死んだ鹿と一緒に生きたまま穴に埋められたそうや。
さて、興福寺の南側の石垣に沿うて三条通をずっと上がっていくと、右側へだらだらと下っ
たところに、菩提院大御堂というお堂、俗に十三鐘と呼ばれてるところの話。

むかし、このお堂の横に寺子屋があってん。 あるときのことや。
三作という子どもが、この寺小屋で、「いーろは、いーろは」て声あげながら習字をしてる
とな、そこへ鹿が上がってきて、廊下に置いたあった大事なお手本を食べ始めてん。
三作はびっくりして、「こらっ」いうて、思わず、手元にあった文鎮を鹿に投げつけたんや。
そうしたら、当たり所が悪かったんか、鹿はその場に倒れて死んでしもうてんて。
鹿を殺した科で、三作は石子詰めにされることになってん。
大御堂の前の庭の東の方に穴が掘られ、三作は、鹿と一緒に生き埋めにされてしもうた
んや。 三作の母親は、三作が埋められたところにモミジの木を植えて供養してん。
その時から、「鹿にモミジ」という取り合わせが始まったそうや。
そうして、三作が石子詰めになった時刻が、夕方の六つと七つの間やったので、
六つと七つを足して、ここを十三鐘というようになったんやて。

このお話には、その証拠になる「三作のお墓」が今日まで伝えられている!
母親は三作が秋に亡くなったので、モミジを植えて、葉が色づくと、三作を思い出した
そうだ。また、三作が今度生まれてきたときは亀のように長生きして欲しいと、母親は
お墓に亀石と供養塔を建てた。境内のお墓をよく見て、確認してください。このように
三作の墓が今日まで伝えられている。 奈良の先祖の人たちがこの話を未来に向けて
伝えて欲しいとの強烈なメッセージ、鹿を大切にする心と子を想う母の深い愛です。

春日大社一之鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもので
ある。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社と興
福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。3月の春日祭や12月の春日若宮おん
祭の際には大きな榊が立てられています。 今次の第60次式年造替の事始めに大規模な
修理が施されました。
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鷺池&浮身堂へ向かう
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鷺池&浮見堂
奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂です。  水面
に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。現在の浮見堂は、旧浮見堂が老朽化し
たために、平成3年から平成6年にかけての3年間の修復工事によって、その美しさを今によ
みがえらせました。 春日大社より浅茅が原の林をぬけていくとつきあたります。
此の日も花嫁花婿のカップルが写真撮影に順番待ちしていました・・・
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鷺池の鷺
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高畑駐車場~志賀直哉旧居へ
向かう途中で2匹の”瓜坊”に出会った
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志賀直哉旧居・・・奈良学園セミナーハウス
旧志賀直哉邸は、昭和初期に志賀直哉自身が設計したものです。 数寄屋風の造りですが、
洋風の様式も取り入れた当時としては非常に進歩的で合理的、美的な工夫を随所に凝して
いるのが特徴です。
本学園では、「旧志賀直哉邸」を昭和53年に厚生省(現厚生労働省)より譲り受け、保存に
努めるとともに、広く一般の方々に公開し、各種公開講座の開催や本学園が設置する各学
校の生徒・学生等が利用できるセミナーハウスとして用いています。
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※志賀直と奈良
大正14年(1925年)、 京都・ 山科から奈良・幸町に居を移した志賀直哉は幸町の借家で
4年間を過ごした後、この上高畑町に宅地を求めます。自ら設計の筆を執り、友人の画家・
浜田葆光に紹介を受けた京都の数寄屋大工の棟梁・下島松之助に邸宅の建築を依頼し
ました。
大正元年から始まった自身の真のありかを求め続ける彷徨の過程で、東洋の古美術と向
き合った直哉は、大正15年には美術図録「座右宝(ざうほう)」を編纂しました。昭和4年に
移り住んだこの上高畑の邸宅は奈良公園に隣接し、御蓋山、春日山、若草山、高円山など
を借景とし、自然の風景に恵まれ、静寂でしかも明美です。直哉は、奈良特有の自然美と
静寂に心をひかれ、執筆活動を行い、昭和12年には長編小説「暗夜行路」を完成していま
す。この地はまた、歴史的な古寺社を訪れるにも近くて便利であり、古美術の研究をする
ためにも理想的な土地でありました。
志賀直哉が壮年期の13年間(大正14年4月から昭和13年4月)を過ごした奈良での暮らしは、
多くの文化人たちと芸術を論じ、時には遊びに興じて、友人・知人たちとの心の交流を大切
にした時間であり、家族の平和と健康を望み、子供たちの家庭教育を行い、家族の絆を育ん
だ生活でした。

新薬師寺(しんやくしじ)
新薬師寺は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)
は光明皇后または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、
後世に付したものである)。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規
模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。
新薬師寺は奈良時代(8世紀)創建の官立寺院であることは間違いないが、創建の正確な時
期や事情については正史に記載がない。平安時代末期成立の『東大寺要録』には、末寺であ
る新薬師寺についての記載があり、同書の巻第一・本願章には「天平19年(747年)、光明皇
后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。また、同
書巻第六・末寺章によれば、新薬師寺は別名を香薬寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄
土七躯」があったという。天平宝字6年3月1日(762年3月30日)の「造東大寺司告朔解」(こく
さくげ)という文書(正倉院文書)によると、当時「造香山薬師寺所」という臨時の役所が存在し、
香山薬師寺(新薬師寺の別名)の造営がまだ続いていたことがわかる。
『続日本紀』の記載を見ると、聖武天皇の病気は2年前の天平17年(745年)以来のもので、新
薬師寺の建立された天平19年(747年)頃は小康状態にあったようである。『続紀』によると、
天平17年(745年)9月には聖武の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)法
要の実施を命じ、また諸国に「薬師仏像七躯高六尺三寸」の造立を命じている。新薬師寺の
創建は、この七仏薬師造立の勅命にかかわるものとみられている。なお、別の伝承では、聖
武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745年)に建立したともいう。
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此処までは、
6月24日の古の雅と季節あふれる奈良公園散策-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-07-05
此処では続きの新薬師寺の境内~の詳細を投稿します。
新薬師寺の境内
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若草山(昼食)
今年もボランティアで5月に若草山の保全活動(南京ハゼを刈り、ススキを植える)に汗を流し
ました。山麓ゲートの近くで鹿に注意してお握りを食べました。
山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので三笠山ともいいます。
 高さ342m、広さが33haあり、山内のあちらこちらで鹿を見ることができます。春には桜、
秋の紅葉、ススキと四季折々の自然を楽しむことができます。
山麓、一重目、二重目、山頂(三重目)、鶯塚古墳周辺道などで違った景観をお楽しみ頂
けます。 (鶯塚古墳周辺道は二重目料金所を北(山頂へ向かって左折)へ進む)
歩行時間は、山麓ゲートから30分~40分位で山頂へ到着します。心地よい汗をどうぞ。
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手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)・校倉造り
奈良市街東部の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では
菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺
の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮南の
梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)
の平重衡による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初
の鎮座地とされる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条
二坊庭園跡庭園がその跡ともいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされて
きたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。
重要文化財
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式とも類似
した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
宝庫
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「東大寺法華堂経庫」
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東大寺 三月堂
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)
の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索
堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に
法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置で
あったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天
平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。
時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。
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東大寺 四月堂(三昧堂)
本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると法華三昧会(ほっけさん
まいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四月堂」という通称で呼ばれる
ようにもなっていきました。
東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに常駐しておられる上に、無料で拝観
することが可能なお堂となっています。観光スポットとしての扱いはあまりされておらず、
東大寺ファン、仏像ファンの方のみに知られるような存在ではありますが、気軽に立ち寄
ることが可能です。
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二月堂へ向かう
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二月堂
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵
火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(16
67年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本
尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、ど
ちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。
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歴史的風土保存地区
二月堂の裏山を階段を登って行くとお地蔵さんの並んだ散策路に出る、右の方へは、多分
手向山八幡の方向へ?今回は左手の二月堂の裏参道の川沿いへ出る方向へ歩いてみた。
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大湯屋
寺院の風呂場です。奈良時代から設けられていたのですが、文献での初見は平安時代に
降ります。その後数回の被災・再建を経て、室町時代に再建されたのが現在の建物で、五
重塔再建と同じ時期-すなわち応永33年(1426)頃と考えられます。
正面4間(11.7m)、側面4間(10.6m)、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、西面の屋根
は入母屋(いりもや)、東面の屋根は切妻(きりづま)ですので、東側になんらかの建物があ
り、この大湯屋で湯を沸かし、東の建物に湯を送って蒸し風呂にしたり、あるいは入浴した
りしたと思われます。
内部に床を敷かず、地面に直接鉄の湯釜を2個据えています。南の湯釜はほぼ完形で、口
径1.5m、胴径1.86m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らない
のですが、口径1.44mで平安時代のものです。
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東大寺
大仏殿へ向かう
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルといわれ
る高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・東大寺の
大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で再現したもので、
当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめら
れていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有る
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東大寺
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録で
ある『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金
鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神
亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩
提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺
の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録か
ら知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見
られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年
(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いら
れるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料
に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は
恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽
宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に
遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現
在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の
支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開
眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳
造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)の
ことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖
(ししょう)」と呼んでいる。
※盧舎那仏の造立&『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、
民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願
われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず
必要であった。
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鏡池
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東大寺
山門を後に氷室神社へ向う
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氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。
和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩
根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始され
た。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月
30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平
安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷さ
れ、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱
印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治
以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。
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猿沢池
興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池である。放生
会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である。
現在、猿沢池園地として整備され、市街地に近いこともあって市民の憩いの場となっている。
※猿沢池の七不思議
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川はなくまた流
出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいるが、なぜか蛙はいな
い。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増える一方であるにもかかわら
ず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くてもおかしくないような池。
※采女伝説
猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き悲しんで
入水した采女を慰めるために建てられたという。
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mamu7010

 多分集合場所か、時間を間違えてますよ!
東大寺4月堂の謂れ、初めて聞いたかも?
大湯屋!か、なんか良いですネ。
まだまだ見るとこありますネ、ホント!


by mamu7010 (2018-07-05 20:22) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
ある意味、がウドが居なくて良かったかも知れない、好きな
場所を時間採って回れて新薬師寺ではビデオを見せて貰っ
てて結構長い時間を3名でビデオ見ながら涼んでいて・・・
by taharas (2018-07-06 02:56) 

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