3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-2
4月6日 3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-2
近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、最高のハイキング日和、知人と4名で参加、途中に石切劔箭神社を加えて
此の日の私の万歩計は、26558歩で約19.6km歩いたことに・・・
近鉄駅フリーハイキング 石切駅 北改札口(受付) 9時半~10時半
石切駅 北改札口(受付)~石切大仏~石切劔箭神社~重願寺~枚岡公園~枚岡神
社~瓢箪山稲荷神社~花園中央公園~吉田春日神社(ラグビー神社)~東花園駅
志都美駅
石切大仏へ向かう
千手寺(せんじゅうじ)
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠
置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に
出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、こ
の地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に
現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊と
した。その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰した
が、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ご
とに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良
房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登
場するこの寺の寺伝。境内に古墳も有る。なんじゃもんじゃの木も有る。
石切大仏
精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目
阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、石切大仏です。
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。
「石切劔箭命神社二座」。
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度
石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び
宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生
駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇
の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日
本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下
を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
石切大仏の方へ戻る
石切大仏~額田駅へ向かう
公園出トイレ休憩
夫婦塚古墳・・・神並古墳群
夫婦塚古墳は、21基からなる神並古墳群(現存7基だそうです)の中心的な古墳です。
東大坂市の文化財に指定されています。平成元年に石室内部の発掘調査が行われて
います。西石室は3体、東石室は2体の埋葬が確認されています
東石室からは須恵器・土師器などの土器類、銀製品、玉類、馬に乗った人物や犬をか
たどった壷の装飾部品が出土。西石室からは須恵器、玉類、耳環、銀製品が出土。
6世紀中頃の築造と考えられています。
額田駅~重願寺へ向かう
※又見逃した楠正行の首塚
額田駅から重願寺へ向かう途中、「重願寺」の手前に「楠木正行公の首塚」が有ると言う、
駅の近くで小さな案内「楠木正行公の首塚」文字を見たが見つからない?
案内瞞に従い歩いて行くと、住宅地の一角に小さな石龕が祀られていると言う、楠木正成
の長男である正行は父子2代にわたる南朝方の忠臣として後世に名をとどめており、13
48年(正平3年)高師直軍との四条畷の戦いで破れ、弟正時と差し違えて自害したといわ
れるが、その墓は四条畷神社が管理している「小楠公墓所」以外にも、正行が本陣を置い
た「往生院」にある。また、首塚についても京都嵯峨の「宝筺院」や宇治の「正行寺」が有名
であるが、この東大阪市の此処にも首塚が有ると言う。
この塚は、地元では昔から手厚く保護され、現在でも手入れが行き届いていると言う。
重願寺・・・重願寺HPより
当寺は當知院本誓山重願寺と号し、大阪都市計画の谷町線拡張により昭和37年に
現在の額田に移転した浄土宗のお寺です。
総本山は京都の知恩院。豊臣秀吉の本願で、文録3年(1594)5月18日に岸譽雲
海上人が開基しました。現在の住職は19世忍譽行雄です。
御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108セ
ンチで、その姿は木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原
時代の特徴を残しています。
多寶塔におまつりしている聖観音様は立像で高さ105センチ、お顔は温和で藤原様
式の優美な観音様です。
この観音様は大坂三十三ヶ所観音めぐりの第17番札所として江戸時代以来信仰され、
近松門左衛門作『曾根崎心中附り観音めぐり』の中にも『17番に重願寺、ここからいく
つ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む』と重願寺の事が記載されています。
大阪市内が一望できる境内には慈雲尊者歌碑をはじめとして、そのほかには大坂夏の
陣『大坂城かえる石』『大坂刀匠碑』『井上真誡墓碑』2代目桂文枝の『桂塚賛成者碑』
など様々な石碑が奉られています。
此処までは、
3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-06
続きは、枚岡公園~
枚岡公園(昼食休憩)
枚岡公園は、昭和13年に開設され、額田地区および枚岡地区の2つの尾根からなり、
その中央部を豊浦渓谷が流下している自然を生かした公園で、面積が約43.4haです。
昭和33年に金剛生駒国定公園が指定されるにあたり枚岡公園の全地域も国定公園
地域に含められました。梅林や桜の名所としても有名です。
姥ヶ池
姥ヶ池の伝説・・・東大坂の昔話から
およそ600年ほども昔の事でしょうか、河内の国は枚岡の里に伝わる物語です。
村の男が夜道を歩いていると、どこからともなく一尺ほどの火の玉が飛んできて男の顔
をかすめてゆきました。なんや!と思い、よく見ると、白髪頭の老婆の首が宙をただよい
口から火を吹いているではありませんか。男は肝を冷やし、家にとんで帰りガタガタ震え
ていましたが、数日後には死んでしまいした。
村では寄るとさわるとこの話でもちきりで、噂は枚岡神社の神官たちの耳に入るまでに
なりました。枚岡神社では、このところ御灯明が夜半に消えてしまう怪事件が頻発して
いて、「枚岡神社の御灯明は、河内一国を照らされるもの、なのにこれはいかがしたも
のか」と問題になっていました。
山姥の仕業、山姥の正体は?
山姥は、若いころ、「山家の花」と呼ばれたほどの器量よしで、村の若者たちのあこがれ
の的でした。ところが人生とはわからないもので、何の因果か連れ添った男が十一人ま
で次々と死に失せ、それからは村人たちも恐れて言葉も交わしません。
八十八まで生きたが、往年の面影はなく、白髪の恐ろしげな老婆となっても、死ぬに死ね
ず貧しい暮らしをたてていました。夜なべの油も買えず、悪いこととは知りながらも、神社
の燈明の油を盗んでしまいました。それを村人にとがめられたため、老婆は神社の境内
の池に身投げして死んでしまったのです。村人たちは、冷たいもので供養もせず、仏も野
ざらしにして野犬や烏のついばむに任せていました。
それ以来、雨の降る夜には池の付近に青白い火の玉が現れ、老婆の妄執の火であると、
「姥ヶ火」と呼ばれるようになり、大変怖がられるようになったのです。
枚岡神社
祭神
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に
「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に
根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)は
その后神です。経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取
鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
創祀
枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3
年前と伝えられています。神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめ
のたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神
の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀と
されています。
※皇紀
皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、
初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。
※神武御東征(じんむごとうせい)
神武天皇(神倭伊波禮毘古命:かむやまといはれびこのみこと)は、日本の国を治める為、
九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山
の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。これを神武御東征といいます。
浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を
越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻
止しようと戦がおこってしまいます。思うように進むことができないばかりか、兄である五
瀬命(いつせのみこと)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに
神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら、日に向かって敵を討
つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山
紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。
この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を
祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。
瓢箪山稲荷神社
瓢箪形の古墳を背にまつられた瓢箪山稲荷神社は古くから「淡路島かよう千鳥の河内ひょ
うたん山恋の辻占」と名調子で売り歩いた辻占の総本山で、日本三大稲荷の一つです。こ
の辻占は、一の鳥居前にある占場に立って往来する人の服装・態度・持ち物などを見て判
じたといわれています。
創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三
里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在
の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。
神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期・6世紀末ご
ろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。 そのヒョウタンに似た形状
から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。
花園中央公園へ向かう
瓢箪山商店街
しばらく恩地川沿い
恩地川を渡る
花園中央公園・・・HPより
公園内には花園中央公園野球場(花園セントラルスタジアム)、ドリーム21、市民美術セン
ター等があり、花園図書館や花園ラグビー場にも近く、東大阪市の文化・スポーツ活動の
拠点となるよう、 各種の施設整備を進めています。
公園内の東側には、桜の広場や花菖蒲池などがあり、開花時期には多くの人が訪れ、公
園利用者の憩いの場となっています。また、南側のメインゲートにある石モニュメントと噴
水は公園のシンボルであり、涼やかで心地良い空間を創り出しています。
吉田春日神社へ向う
吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。
東花園駅へ向かう
東花園駅
近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、最高のハイキング日和、知人と4名で参加、途中に石切劔箭神社を加えて
此の日の私の万歩計は、26558歩で約19.6km歩いたことに・・・
近鉄駅フリーハイキング 石切駅 北改札口(受付) 9時半~10時半
石切駅 北改札口(受付)~石切大仏~石切劔箭神社~重願寺~枚岡公園~枚岡神
社~瓢箪山稲荷神社~花園中央公園~吉田春日神社(ラグビー神社)~東花園駅
志都美駅
石切大仏へ向かう
千手寺(せんじゅうじ)
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠
置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に
出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、こ
の地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に
現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊と
した。その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰した
が、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ご
とに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良
房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登
場するこの寺の寺伝。境内に古墳も有る。なんじゃもんじゃの木も有る。
石切大仏
精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目
阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、石切大仏です。
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。
「石切劔箭命神社二座」。
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度
石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び
宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生
駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇
の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日
本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下
を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
石切大仏の方へ戻る
石切大仏~額田駅へ向かう
公園出トイレ休憩
夫婦塚古墳・・・神並古墳群
夫婦塚古墳は、21基からなる神並古墳群(現存7基だそうです)の中心的な古墳です。
東大坂市の文化財に指定されています。平成元年に石室内部の発掘調査が行われて
います。西石室は3体、東石室は2体の埋葬が確認されています
東石室からは須恵器・土師器などの土器類、銀製品、玉類、馬に乗った人物や犬をか
たどった壷の装飾部品が出土。西石室からは須恵器、玉類、耳環、銀製品が出土。
6世紀中頃の築造と考えられています。
額田駅~重願寺へ向かう
※又見逃した楠正行の首塚
額田駅から重願寺へ向かう途中、「重願寺」の手前に「楠木正行公の首塚」が有ると言う、
駅の近くで小さな案内「楠木正行公の首塚」文字を見たが見つからない?
案内瞞に従い歩いて行くと、住宅地の一角に小さな石龕が祀られていると言う、楠木正成
の長男である正行は父子2代にわたる南朝方の忠臣として後世に名をとどめており、13
48年(正平3年)高師直軍との四条畷の戦いで破れ、弟正時と差し違えて自害したといわ
れるが、その墓は四条畷神社が管理している「小楠公墓所」以外にも、正行が本陣を置い
た「往生院」にある。また、首塚についても京都嵯峨の「宝筺院」や宇治の「正行寺」が有名
であるが、この東大阪市の此処にも首塚が有ると言う。
この塚は、地元では昔から手厚く保護され、現在でも手入れが行き届いていると言う。
重願寺・・・重願寺HPより
当寺は當知院本誓山重願寺と号し、大阪都市計画の谷町線拡張により昭和37年に
現在の額田に移転した浄土宗のお寺です。
総本山は京都の知恩院。豊臣秀吉の本願で、文録3年(1594)5月18日に岸譽雲
海上人が開基しました。現在の住職は19世忍譽行雄です。
御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108セ
ンチで、その姿は木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原
時代の特徴を残しています。
多寶塔におまつりしている聖観音様は立像で高さ105センチ、お顔は温和で藤原様
式の優美な観音様です。
この観音様は大坂三十三ヶ所観音めぐりの第17番札所として江戸時代以来信仰され、
近松門左衛門作『曾根崎心中附り観音めぐり』の中にも『17番に重願寺、ここからいく
つ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む』と重願寺の事が記載されています。
大阪市内が一望できる境内には慈雲尊者歌碑をはじめとして、そのほかには大坂夏の
陣『大坂城かえる石』『大坂刀匠碑』『井上真誡墓碑』2代目桂文枝の『桂塚賛成者碑』
など様々な石碑が奉られています。
此処までは、
3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-06
続きは、枚岡公園~
枚岡公園(昼食休憩)
枚岡公園は、昭和13年に開設され、額田地区および枚岡地区の2つの尾根からなり、
その中央部を豊浦渓谷が流下している自然を生かした公園で、面積が約43.4haです。
昭和33年に金剛生駒国定公園が指定されるにあたり枚岡公園の全地域も国定公園
地域に含められました。梅林や桜の名所としても有名です。
姥ヶ池
姥ヶ池の伝説・・・東大坂の昔話から
およそ600年ほども昔の事でしょうか、河内の国は枚岡の里に伝わる物語です。
村の男が夜道を歩いていると、どこからともなく一尺ほどの火の玉が飛んできて男の顔
をかすめてゆきました。なんや!と思い、よく見ると、白髪頭の老婆の首が宙をただよい
口から火を吹いているではありませんか。男は肝を冷やし、家にとんで帰りガタガタ震え
ていましたが、数日後には死んでしまいした。
村では寄るとさわるとこの話でもちきりで、噂は枚岡神社の神官たちの耳に入るまでに
なりました。枚岡神社では、このところ御灯明が夜半に消えてしまう怪事件が頻発して
いて、「枚岡神社の御灯明は、河内一国を照らされるもの、なのにこれはいかがしたも
のか」と問題になっていました。
山姥の仕業、山姥の正体は?
山姥は、若いころ、「山家の花」と呼ばれたほどの器量よしで、村の若者たちのあこがれ
の的でした。ところが人生とはわからないもので、何の因果か連れ添った男が十一人ま
で次々と死に失せ、それからは村人たちも恐れて言葉も交わしません。
八十八まで生きたが、往年の面影はなく、白髪の恐ろしげな老婆となっても、死ぬに死ね
ず貧しい暮らしをたてていました。夜なべの油も買えず、悪いこととは知りながらも、神社
の燈明の油を盗んでしまいました。それを村人にとがめられたため、老婆は神社の境内
の池に身投げして死んでしまったのです。村人たちは、冷たいもので供養もせず、仏も野
ざらしにして野犬や烏のついばむに任せていました。
それ以来、雨の降る夜には池の付近に青白い火の玉が現れ、老婆の妄執の火であると、
「姥ヶ火」と呼ばれるようになり、大変怖がられるようになったのです。
枚岡神社
祭神
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に
「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に
根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)は
その后神です。経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取
鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
創祀
枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3
年前と伝えられています。神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめ
のたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神
の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀と
されています。
※皇紀
皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、
初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。
※神武御東征(じんむごとうせい)
神武天皇(神倭伊波禮毘古命:かむやまといはれびこのみこと)は、日本の国を治める為、
九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山
の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。これを神武御東征といいます。
浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を
越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻
止しようと戦がおこってしまいます。思うように進むことができないばかりか、兄である五
瀬命(いつせのみこと)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに
神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら、日に向かって敵を討
つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山
紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。
この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を
祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。
瓢箪山稲荷神社
瓢箪形の古墳を背にまつられた瓢箪山稲荷神社は古くから「淡路島かよう千鳥の河内ひょ
うたん山恋の辻占」と名調子で売り歩いた辻占の総本山で、日本三大稲荷の一つです。こ
の辻占は、一の鳥居前にある占場に立って往来する人の服装・態度・持ち物などを見て判
じたといわれています。
創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三
里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在
の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。
神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期・6世紀末ご
ろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。 そのヒョウタンに似た形状
から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。
花園中央公園へ向かう
瓢箪山商店街
しばらく恩地川沿い
恩地川を渡る
花園中央公園・・・HPより
公園内には花園中央公園野球場(花園セントラルスタジアム)、ドリーム21、市民美術セン
ター等があり、花園図書館や花園ラグビー場にも近く、東大阪市の文化・スポーツ活動の
拠点となるよう、 各種の施設整備を進めています。
公園内の東側には、桜の広場や花菖蒲池などがあり、開花時期には多くの人が訪れ、公
園利用者の憩いの場となっています。また、南側のメインゲートにある石モニュメントと噴
水は公園のシンボルであり、涼やかで心地良い空間を創り出しています。
吉田春日神社へ向う
吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。
東花園駅へ向かう
東花園駅
2018-04-06 01:36
nice!(7)
コメント(2)
個人的には、白躑躅・赤躑躅が好きです。
姥ヶ池の伝説ってなんか普通の話、、、?みたい。
山吹ですか~。
吉田春日神社(ラグビー神社)、良いですネ。
by mamu7010 (2018-04-06 20:57)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
可憐なミツバツツジが今の時期は多いようです、
けいはんな公園もミツバツツジの薄紫?覆われていました。
ラグビー神社は解りにくい場所に有りました・・・
by taharas (2018-04-06 21:39)