3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-2
3月27日 3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-2
近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、K場さんO村さんM村さんI田さんと5名で歩きました、又甘酒にたどりつかず。
近鉄駅フリーハイキング 酒蔵みてある記 大和八木駅コンコース(受付)9時半~11時
コース ハイキング終了後 ※今井町でいつもの胡瓜の奈良漬けGet
大和八木駅(受付)~入鹿神社~人麻呂神社~宗我坐宗我都比古神社~天高市神社~
今井町~河合酒造(試飲・甘酒ふるまい)~八木西口駅 → 柏原神宮前駅でお茶
お水とりも終わって春の陽気に、此の日の私の万歩計は、20402歩で約15km歩いた・・・
ハイキング参加者は1200名超え、我々5名は今回も抽選会には縁無し・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝
わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)
が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管
されている。
近鉄下田駅へ
大和八木駅(受付)~
入鹿神社へ向う
入鹿神社・・・蘇我入鹿公を御神体とする神社
入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって
建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両
柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」
といった地名も残っています。
※入鹿神社の伝説 (橿原市小綱町)
蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったといわれ
る。また、小綱で生れたものは多武峯へ参ると腹痛が起るといわれ、また、高市郡明日香
村の小原は藤原鎌足の母の出世地だというので、小綱と小原は縁組しないといわれた。
正蓮寺 大日堂
正蓮寺大日堂は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の本堂で、普賢寺の創建年代につ
いては全く明らかにすることはできないが、その建立年代は棟札により文明10年(1478)
の上棟であることが分かっている。
人麻呂神社
人麿(ひとまろ)神社は、万葉歌人で三十六歌仙である柿本人麻呂(かきのもとのひとま
ろ)を祭神とする神社です。石灯籠と狛犬は明治14年に奉献されています。
宗我坐宗我都比古神社へ向う
土筆を見つけた
宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこじんじや)
宗我都比古神社の祭祀は、社名・神名に「ソガツヒコ(宗我都比古)」と見えることから、古
代豪族の蘇我氏(そがうじ)に関係すると考えられている。蘇我氏は著名な氏族であるが、
その本拠地(本貫)は明らかとなっておらず、宗我都比古神社の鎮座地である大和国高
市郡曾我(橿原市曽我町一帯)に比定する説のほか、大和国葛上郡(御所市一帯)に比
定する説、河内国石川郡(大阪府富田林市東半・南河内郡一帯)に比定する説の3説が
知られる。そのうち1説目(当地)は、地名「曾我」や宗我都比古神社の存在、および『紀
氏家牒』で蘇我石河宿禰について「家二大和国高市県蘇我里一」とあることから、特に
有力視される地域になる。
此処までは、
3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-27
続きは、天高市神社へ向う~
蘇我川緑地体育館でトイレ休憩&昼食
蘇我川沿いを
天高市神社へ向う~
天高市神社(あめのたけちじんじゃ)
創祀年代は不詳。式内社・天高市神社に比定されている古社で、貞観元年に従五位上
を叙された神社。中世から江戸期には八幡宮と称し、本来の祭神素盞嗚尊に加えて、八
幡三神を合祀し、御神体の神像も木像四体であるらしいが、いつの頃か祭神が一柱とな
り、現在の事代主神となったという。
今井町へ向かう
今井町
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。
江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的に貴重な
財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。
東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟
弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています
春日神社
今井町の西南隅、南北を環濠に囲まれた森の中に鎮座する。天児屋根命を祀る
旧指定村社である。創始年代は明らかでないが、当社現存最古の石燈籠銘に
「慶安五壬辰年仲春吉日」とある。廃仏毀釈前天台宗多武峯末に属した常福寺と
して当社は鎮守であったというが、その棟札に「上棟大和国高市郡今井常福寺」
「干時慶長十八年七月癸丑十六日敬白」とあり、当社の神宮寺として慶長十八年
(1613)に上棟している。このことは当社最古の石燈籠の奉納に先たつこと39年
前ということになるが、当社は遅くとも江戸初期以前に創始されていたことに成る。
現在当社神域全体が全く寺院の姿を呈しているのは、かって常福寺の伽藍の中
に当社がその鎮守として存立していたが明治初年に廃寺となり、春日神社のみ残
されたことになる。
称念寺(しょうねんじ)
稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。
現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆
今井兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、
我孫子の城主をも兼ねていた。
彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和議の使者のひとりとして兵
部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときで、
時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なか
んずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院
を統轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を
果たしている明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、
御一泊の後堺に向け御進発遊ばされた。
西南の戦争の始まりであった。
平成十四年(2002年)五月二十三日、本堂、国の重要文化財に指定される。
河合酒造へ向かう
河合酒造(試飲・甘酒ふるまい)
「出世男」の醸造元である河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定さ
れていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史あ
る蔵元です。
高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
創祀年代は不詳だが、社伝によると成務天皇の御代に創立。 式内社・高市御縣神社
に比定されている古社で、高市県主に任ぜられた天津彦根命の後裔が祖神を祀った
神社。 大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。延喜式では、高市、葛木、
十市、志貴、山辺、曽布の六社でその中の第一位。
八木西口へ向かう
桜が・・・
八木西口駅
五位堂駅
おまけ
我家の玄関前の沈丁花
近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、K場さんO村さんM村さんI田さんと5名で歩きました、又甘酒にたどりつかず。
近鉄駅フリーハイキング 酒蔵みてある記 大和八木駅コンコース(受付)9時半~11時
コース ハイキング終了後 ※今井町でいつもの胡瓜の奈良漬けGet
大和八木駅(受付)~入鹿神社~人麻呂神社~宗我坐宗我都比古神社~天高市神社~
今井町~河合酒造(試飲・甘酒ふるまい)~八木西口駅 → 柏原神宮前駅でお茶
お水とりも終わって春の陽気に、此の日の私の万歩計は、20402歩で約15km歩いた・・・
ハイキング参加者は1200名超え、我々5名は今回も抽選会には縁無し・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝
わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)
が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管
されている。
近鉄下田駅へ
大和八木駅(受付)~
入鹿神社へ向う
入鹿神社・・・蘇我入鹿公を御神体とする神社
入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって
建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両
柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」
といった地名も残っています。
※入鹿神社の伝説 (橿原市小綱町)
蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったといわれ
る。また、小綱で生れたものは多武峯へ参ると腹痛が起るといわれ、また、高市郡明日香
村の小原は藤原鎌足の母の出世地だというので、小綱と小原は縁組しないといわれた。
正蓮寺 大日堂
正蓮寺大日堂は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の本堂で、普賢寺の創建年代につ
いては全く明らかにすることはできないが、その建立年代は棟札により文明10年(1478)
の上棟であることが分かっている。
人麻呂神社
人麿(ひとまろ)神社は、万葉歌人で三十六歌仙である柿本人麻呂(かきのもとのひとま
ろ)を祭神とする神社です。石灯籠と狛犬は明治14年に奉献されています。
宗我坐宗我都比古神社へ向う
土筆を見つけた
宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこじんじや)
宗我都比古神社の祭祀は、社名・神名に「ソガツヒコ(宗我都比古)」と見えることから、古
代豪族の蘇我氏(そがうじ)に関係すると考えられている。蘇我氏は著名な氏族であるが、
その本拠地(本貫)は明らかとなっておらず、宗我都比古神社の鎮座地である大和国高
市郡曾我(橿原市曽我町一帯)に比定する説のほか、大和国葛上郡(御所市一帯)に比
定する説、河内国石川郡(大阪府富田林市東半・南河内郡一帯)に比定する説の3説が
知られる。そのうち1説目(当地)は、地名「曾我」や宗我都比古神社の存在、および『紀
氏家牒』で蘇我石河宿禰について「家二大和国高市県蘇我里一」とあることから、特に
有力視される地域になる。
此処までは、
3月17日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-03-27
続きは、天高市神社へ向う~
蘇我川緑地体育館でトイレ休憩&昼食
蘇我川沿いを
天高市神社へ向う~
天高市神社(あめのたけちじんじゃ)
創祀年代は不詳。式内社・天高市神社に比定されている古社で、貞観元年に従五位上
を叙された神社。中世から江戸期には八幡宮と称し、本来の祭神素盞嗚尊に加えて、八
幡三神を合祀し、御神体の神像も木像四体であるらしいが、いつの頃か祭神が一柱とな
り、現在の事代主神となったという。
今井町へ向かう
今井町
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。
江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的に貴重な
財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。
東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟
弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています
春日神社
今井町の西南隅、南北を環濠に囲まれた森の中に鎮座する。天児屋根命を祀る
旧指定村社である。創始年代は明らかでないが、当社現存最古の石燈籠銘に
「慶安五壬辰年仲春吉日」とある。廃仏毀釈前天台宗多武峯末に属した常福寺と
して当社は鎮守であったというが、その棟札に「上棟大和国高市郡今井常福寺」
「干時慶長十八年七月癸丑十六日敬白」とあり、当社の神宮寺として慶長十八年
(1613)に上棟している。このことは当社最古の石燈籠の奉納に先たつこと39年
前ということになるが、当社は遅くとも江戸初期以前に創始されていたことに成る。
現在当社神域全体が全く寺院の姿を呈しているのは、かって常福寺の伽藍の中
に当社がその鎮守として存立していたが明治初年に廃寺となり、春日神社のみ残
されたことになる。
称念寺(しょうねんじ)
稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。
現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆
今井兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、
我孫子の城主をも兼ねていた。
彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和議の使者のひとりとして兵
部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときで、
時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なか
んずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院
を統轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を
果たしている明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、
御一泊の後堺に向け御進発遊ばされた。
西南の戦争の始まりであった。
平成十四年(2002年)五月二十三日、本堂、国の重要文化財に指定される。
河合酒造へ向かう
河合酒造(試飲・甘酒ふるまい)
「出世男」の醸造元である河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定さ
れていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史あ
る蔵元です。
高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
創祀年代は不詳だが、社伝によると成務天皇の御代に創立。 式内社・高市御縣神社
に比定されている古社で、高市県主に任ぜられた天津彦根命の後裔が祖神を祀った
神社。 大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。延喜式では、高市、葛木、
十市、志貴、山辺、曽布の六社でその中の第一位。
八木西口へ向かう
桜が・・・
八木西口駅
五位堂駅
おまけ
我家の玄関前の沈丁花
2018-03-27 23:57
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コメント(4)
どこを歩いても花盛り!
良い季節になったね。^^
今日も半袖の人多くなりそうやね。
by hatumi30331 (2018-03-28 07:13)
酒粕当選815番は僕ですヨ。
今井町界隈、お昼ご飯食べに行くだけでも良いかも?
話題のモクレンvsコブシ、沈丁花読み調べました。
でもホント快適なハイキングコースですネ。
by mamu7010 (2018-03-28 13:09)
hatumi30331さん
コメント有難う御座います!(^^)!
気候は半袖OKだがこちらでは未だ勇気がいります・・・
by taharas (2018-03-29 00:39)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
ごめんごめんそうだった、酒粕当ったんだねー
背割り堤の桜、良かったですよ・・・
by taharas (2018-03-29 00:46)