SSブログ

11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-2

11月17日   11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-2
               朝日&五私鉄リレーウオーク 歩程約13km
今回は知人と3人で「朝日・五私鉄リレーウオーク」と「みなみかわち歴史ウオーク」合同企画
の「日本最古の官道 竹内街道と 聖徳太子と古代天皇が眠る 王陵の磯長谷を巡る」ハイ
キングに参加、参加人数は脅威の4141人、太子町の狭い道路では人間の渋滞迄体験も・・・
アップダウンの多い長距離(13km)ハイキングで少し疲れたが気候に恵まれとても良かった。
私の万歩計は、29130歩で約19.6km歩いたことに・・・
今年、平成29年4月に日本遺産認定!日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」
平成29年4月5日に開催された日本遺産審査委員会(文化庁)の審議を経て、『1400年に渡る
悠久の歴史を伝える日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」』が、日本遺産に認定されま
した。大阪府内では初めて、奈良県内では3件目の認定となります。
<タイトル>1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~
<ストーリーの概要>
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このことから、推古
天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内街道・横大路)は、太
陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。中
世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに様々な
表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹
内街道と横大路(大道)なのである。
※日本遺産
日本遺産は平成27年度から文化庁が「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝
統を語るストーリー」を認定する制度です。今年度は全国から79件の申請があり、17件が認定
されました。
11月12日のハイキングで感じた事は、小野妹子墓?以前は大勢の参拝者?達で賑わった様
な痕跡(トイレや休憩所など)残っているが、今はこの様な企画でも無い限り寂れて荒れている?

コース  近鉄 朝日・五私鉄リレーウオーク&みなみかわち歴史ウオーク合同企画
上ノ太子駅~聖和台第1公園(受付・スタート)~妙見寺~用明天皇陵~太子町役場(トイレ)~
スーパー~孝徳天皇陵~竹内街道歴史資料館~道の駅・近つ飛鳥の里・太子~大道旧山本家
住宅~池~観音堂~科長神社・金原大明神~小野妹子墓~二子塚古墳~推古天皇陵~敏達天
皇陵~西方院~推古天皇皇太子聖徳太子墓・叡福寺~聖和台第1公園(ゴール)~上ノ太子駅
此の日の私の万歩計は、29130歩で19.6㎞でした・・・
志都美駅
葛城山~二上山
PB125286.JPG

柏原駅ホームから
PB125288.JPG
上ノ太子駅ホーム
急行が臨時停止して此の人出・・・
PB125290.JPG
上ノ太子駅~聖和台第1公園へ向かう
ブドウ園やみかん園の横を通る
PB125297.JPGPB125300.JPG

聖和台第1公園が見えてきた
PB125307.JPG

聖和台第1公園(受付・スタート)
PB125309.JPGPB125314.JPG
用明天皇陵へ向かう
正月桜(10月桜とも)が咲いていた
PB125316.JPGPB125318.JPG
妙見寺
日本最古の官道竹内街道に蘇我馬子が創建した河内の国最初の霊場とされる妙見寺
推古天皇6年(598年)蘇我馬子が創建したと伝えられ、七堂伽藍を有する大寺で、河内の
国最初の霊場である。南北朝の乱の兵火で被害を受けて焼失するが、寛門年間(1661~
1673)僧浄悦によって再興され、真言宗から曹洞宗に改宗。
妙見寺HPより
曹洞宗(禅宗)、本尊は十一面観世音菩薩立像
曹洞宗開祖、道元禅師様は、『ただひとえに利行にもよほさるるなり』 と示され、自分自身
がいかされていることを意識し、自分本位ではなく、他人の気持ちを考え行動していく利行
(利他行)の実践をしていくべきだと説かれております。妙見寺も利行の実践を行い、慈し
みの心を持ち、皆様に愛される、開かれたお寺作りを目指して日々精進してまいります。
PB125320.JPG PB125322.JPG
竹内街道
用明天皇陵へ向かう、人間が渋滞・・・
PB125327.JPGPB125330.JPGPB125332.JPG
用明天皇陵・・・用明天皇は聖徳太子の父親
第三一代天皇(在位585~587)。橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)の漢風諡号(し
ごう)。欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって,物部守屋と蘇
我馬子が対立した。585年9月5日、聖徳太子の父にあたる用明天皇が即位しました。
大和朝廷が日本の大部分に関して安定した支配権を確立したのは、継体天皇とその子
の欽明天皇の時代と考えられます。その後は欽明天皇の子の敏達天皇が立って、神
道勢力と新興の仏教勢力の争いや、また隣の朝鮮半島での争いなどはあったものの、
比較的平和な時代が続いていました。その敏達天皇が亡くなった後、まだ子供の彦人
皇子は若かったため敏達天皇の弟の橘豊日大兄皇子つまり用明天皇が後をついだも
のと思われます。そして彦人皇子が皇太子になったようです。(明確には書かれてない
が日本書紀の用明紀に1ヶ所だけ彦人皇子のことを太子と書いた箇所がある)
しかしこの用明天皇は即位してわずか1年半で疱瘡に罹り亡くなってしまいます。そして
その後継を巡って物部一族と蘇我一族の全面戦争が勃発、これを制した蘇我が崇峻天
皇を立てますが、従順ではなかったため更にこれを暗殺して蘇我一族の栄光の時代で
ある推古天皇の御代がやってきます。
PB125333.JPGPB125335.JPGPB125337.JPGPB125339.JPG

太子町役場(トイレ)~スーパー

孝徳天皇陵
第 36代の天皇 (在位 645~654) 。名は天万豊日尊 (あめよろずとよひのみこと) 。茅渟
王 (ちぬのおおきみ) の王子,皇極天皇の弟,敏達天皇の曾孫。母は吉備姫王。初めは
軽皇子と称した。皇極4 (645) 年中大兄皇子らが蘇我氏を誅滅したのち,中臣鎌足の意
見もあって軽皇子が即位した。天皇は中大兄皇子を皇太子とし,大化と建元し,大化改
新の事業を進めた。すなわち大化2 (646) 年正月1日詔を出して,班田収授,租・庸・調
の制などを定めた。同年都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみ
や) に移したが,この宮は長安京に模した日本で最初の都城である。間人皇女を立てて
皇后とした。
PB125347.JPGPB125349.JPGPB125351.JPG
竹内街道歴史資料館
竹内街道は堺市大小路[おおしょうじ]を起点とし河内平野を東進する。三国ヶ丘、金岡
を経て松原市に入る。羽曳野市古市で東高野街道と交差する。このあたりから南東に
向きを変え太子町を通過。 竹内峠を越えると当麻町(現・葛城市)に入る。竹内街道は
長尾神社がゴールで全長26km
PB125354.JPGPB125356.JPG

公園で昼食
PB125358.JPGPB125364.JPG

昼食後、道の駅へ向かう
PB125365.JPG

道の駅・近つ飛鳥の里・太子
PB125367.JPG
山本家住宅へ向かう
ラフランスか?
PB125369.JPG
大道旧山本家住宅
大道旧山本家住宅は、わが国最古の国道とも言われる竹内街道の沿道にたたずむ
「かやぶきの古民家」で、大和棟の形態をよく残し、大和と堺を結ぶ街道沿いの歴史
的景観を特徴づけるものとして「国登録有形文化財(建造物)」となっています。周辺
には道しるべや伊勢燈篭などが残されており、かつて経済活動や巡礼にと人々の
ゆきかった、かつての面影を今に伝える格好のスポットとなっています。
大和棟の主屋と北西に連なる入母屋造・桟瓦葺きの離れからなり、東側には蔵を
配置しています。その構造手法から江戸末期と推定される主屋は、茅葺きの切妻
屋根の両側を本瓦葺きとし、内部はドマ、ザシキ、シモミセなどを配する典型的な
民家で、離れには大正元年(1912)の棟札も残ります。
PB125371.JPGPB125373.JPGPB125377.JPG

科長神社(しながじんじゃ) へ向かう
PB125379.JPG


PB125381.JPG
今シーズン初の咲いてる皇帝ダリア
皇帝ダリア
成長すると3~4mにもなる事から皇帝と名付けられました。 別名:木立ダリア。
丈が3~4mにもなります。花はピンク色で直径約20センチメートルの 大輪の花
が茎の頂上につけます。晩秋の頃、空にそびえて立つ姿は圧巻です。
霜に弱いですから、気温が3度以下の時は家に入れます。 また、夜、街灯の下
ではつぼみが付きません。暗い所に移動しましょう
PB125384.JPGPB125385.JPG

観音堂したの池
PB125386.JPG

池の向こうに「PLの搭」が見える
PB125389.JPG

観音堂
PB125390.JPG
此処までは、
11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-17
続きは、科長神社~
科長神社(しながじんじゃ) ・金原大明神
科長神社は、平安時代の『延喜式』という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ば
れる由緒のある神社で、級長津彦命(しながつひこのみこと)、級長津姫命(しながつ
ひめのみこと)など8柱を祀るために、八社大明神とも呼ばれています。社宝には神
功皇后が使用したと伝える雛形の小さな兜があります。
PB125392.JPGPB125394.JPG

金原神社
PB125396.JPG
小野妹子墓
小野 妹子(おの の いもこ、6世紀~7世紀、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。姓は臣。
子に毛人・広人がいた。冠位は大徳冠。『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位
十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文
言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏
の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。
一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子
とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこ
の大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘
老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に
繋いだものと想定されるが、定かではない。
PB125404.JPGPB125406.JPGPB125411.JPG

二子塚古墳へ向かう
PB125414.JPGPB125416.JPG
二子塚古墳
推古天皇陵の南東200メートルに位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた
双方墳という珍しい形式を有しています。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横
穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰を充填塗布しています。また
蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められ
ています。地元には本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言
い伝えがあります。
PB125418.JPGPB125420.JPGPB125422.JPGPB125426.JPG
推古天皇陵・・・推古天皇は聖徳太子の伯母
第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号(しごう)。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊
屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇が蘇
我馬子に殺されると,推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い,飛鳥文
化を現出。欽明天皇の第三女で名を額田部皇女という。576年に敏達天皇(異母兄)の皇
后広姫の薨去にともないその後添えとなった。夫の敏達天皇が疱瘡の病で崩御し、つい
で皇位についた用明天皇もまた疱瘡の病で崩御したので、587年の頃、崇峻天皇が用明
天皇の後をついで皇位についた。しかし、592年蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまと
のあやのあたいこま)に崇峻天皇は暗殺されてしまう。この後皇位をめぐって議論がたたか
わされ、額田部皇女が推挙されるに至ったが、額田部は再三にわたり固辞したという。しか
し群臣らの上奏が数度に及んでついに皇位につき推古天皇となった。わが国初めての女
帝の誕生である。
PB125440.JPGPB125441.JPGPB125443.JPGPB125445.JPGPB125447.JPG

敏達天皇陵へ向かう
PB125453.JPGPB125456.JPG
敏達天皇陵
第三〇代天皇、淳名倉太玉敷尊ぬなくらふとたましきのみことの漢風諡号しごう。欽明天皇
第二皇子。記紀では六世紀後半に在位。
敏達天皇は百済大井に宮を建てたとされているが、この宮については、①奈良県広陵町百
済説と②大阪府河内長野市太井説があり、定まっていない。
敏達天皇は息長真手王の娘広姫を皇后として、押坂彦人大兄皇子らをもうけたが、石姫皇
后が薨去したため、豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)を皇后に迎えた。敏達の時代は、高句
麗から使人が来朝し、また百済・新羅も調を奉じて来ており外交は絶えていなかった。そこ
で敏達は先帝の遺言すなわち、任那の再興を皇子・大臣らに諮ったという。後に百済に働き
かけて日羅に来朝することを求めた。日羅は国内の政を優先すべきと進言したとある。
後にこの日羅は暗殺される。日本の反対勢力によるものか、百済の日本との通交を望まな
い勢力によるものかは、わかっていない。いずれにしてもこれにより任那の再興は頓挫した。
国内ではあいかわらず崇仏派と廃仏派が争い、特に蘇我馬子と物部守屋の対立が激しく
なっていた。585年元興寺縁起によれば物部守屋・中臣勝海らが仏法破却を奏し、これによ
り仏像・仏殿・塔などが破壊され、さらに善信尼(鞍部村主司馬達等の娘=仏師として著名な
鞍造止利の叔母にあたる。)らは辱めを受けて処罰された。敏達は575年8月疱瘡の流行で
この世を去った。
PB125458.JPGPB125463.JPGPB125464.JPGPB125465.JPGPB125467.JPGPB125470.JPG

叡福寺へ向かう
PB125472.JPGPB125474.JPG
西方院
西方院(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向
山、寺号は法楽寺。寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、
禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人
の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉
照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺
号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。
以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は
司馬達等の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥の
豊浦寺である。
江戸時代初期の寛永16年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称
は西方院と改められた。
PB125479.JPGPB125481.JPGPB125483.JPG
推古天皇皇太子聖徳太子墓・・・(聖徳太子の伯母は推古天皇で父親は用明天皇)
聖徳太子
飛鳥時代の摂政。用明天皇の皇子。名は廏戸豊聡耳皇子。聖徳太子は諡名。上宮王
ともいう。おばにあたる推古天皇の摂政として政治を整備した。冠位十二階・十七条憲
法を制定。国史の編纂を行ない、小野妹子を隋へ派遣し国交を開き大陸文化導入に
努めた。特に仏教興隆に尽力し、『三経義疏』を著わし、法隆寺・四天王寺を建立する
など多くの業績を残した。推古30年(622)歿、48才。
PB125484.JPGPB125487.JPG
叡福寺
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とさ
れる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。山号は磯長山(しな
がさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、
聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之
太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)と
ともに三太子の一つに数えられている。
この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、
太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。叡福
寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と
母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることにつ
いては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇
の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたとい
う。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古
天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬さ
れたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの
住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、
聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、
このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代につい
ては諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。
PB125489.JPGPB125493.JPGPB125494.JPGPB125497.JPGPB125499.JPGPB125501.JPGPB125503.JPGPB125505.JPGPB125508.JPGPB125510.JPGPB125513.JPGPB125515.JPGPB125517.JPGPB125519.JPG

叡福寺から聖和台第1公園(ゴール)~上ノ太子駅へ
PB125523.JPG

nice!(21)  コメント(2) 

nice! 21

コメント 2

mamu7010

 人気有りすぎ?
本当に元気な老老男女?
結構歴史が凝縮された場所ですけど、散歩に持ってこい!
小野妹子墓、良かったでしょう!
by mamu7010 (2017-11-18 09:26) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
小野妹子墓だけが残念な事になっていました、草が茫々で
トイレや休憩所が半ば廃墟化に近い状態、感想として書いた
様に、少しで良いから草を刈るなり清掃して欲しい?と・・・・
by taharas (2017-11-18 23:43) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。