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10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2

10月27日      10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2
                    歩こう会例会
徳川家ゆかりの和歌山城を訪ねて 雨天決行10時15分約8㎞  参加者67人
コース    和歌山市駅に10時15分集合
和歌山市駅~勝海舟寓居地~和歌山城~二の丸庭園~天守閣広場~ 不明門跡~
岡山時鐘堂~徳川吉宗生誕地~ 報恩寺~無量光寺~和歌山城氏神 刺田比古神社
(吉宗の仮親)~ 岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電)~岡口門~大手門
にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅迄歩いた、大半の方が駅迄歩いてた
此の日の私の万歩計は、20490歩出役13.6km歩いたことに・・・
和歌山市駅
南海電鉄(本線)が台風21号被害で途中で不通、バス代行運転中の為、
大阪からは1時間余分に時間をかけてJRで駆け付けた関係で参加者少なかった
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勝海舟寓居地
幕府の軍艦奉行であった勝海舟が海岸砲台検分のために滞在した場所
幕末の安政元年、ロシアの使節プチャーチンが和親通商条約締結を渋る徳川幕府に
圧力をかける目的で黒船ディアナ号を大阪湾に侵入させ、天保山の沖合に停泊しまし
た。この時には示威行動のみに終わったものの、異国船がたやすく大阪湾に侵入した
ことに脅威を感じた幕府は、大阪防衛のために淡路島と友が島に台場(砲台)を築造
するよう命じます。しかしながら、当時の日本には海上の艦船を攻撃するための砲台
の築造に関するノウハウが無かったため工事は難航し、工事が完了するのは文久3
年になってからのことでした。
勝海舟は、当時、幕府の軍艦奉行であったことから、海岸砲台検分のため紀州藩を訪
れました。その際に滞在した場所が橋丁の清水平右衛門宅であると伝えられており、
これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。
このとき、勝海舟は加太から和歌浦にかけて海岸沿いの30数か所を検分しました。そ
の際の報告書によれば、やっと完成した加太の台場に対して「その位置を失い、多くは
児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしており、あまりに貧弱なことを嘆いていま
す。それと同時に、加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、実現の際にはそこに浦賀
奉行に準ずる「加太奉行」を設置すべしと主張したと言われています。
この構想は、明治時代になって「由良要塞」として加太や友ケ島に大規模な砲台が建
設されることにより実現することになります。
また、この時には、勝の門弟だった坂本龍馬も紀州藩を訪れており、勝海舟とともに
海防施設の巡視に参加したと考えられています。
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和歌山城へ向かう、お城が見えて来た
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わかやま歴史館
先ずは此処で知識を得てから城内へ
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和歌山城
財団法人日本城郭協会より「日本名城100選」の1つに選定されています。
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふ
さわしい風格を醸し出しています。和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊
臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名
人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、
関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619)
には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、
水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に
来たことを実感させてくれます。又、天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川が
ゆったり流れているのがよくわかります。
和歌山城の石垣は、和歌山城の時代の変遷を映すように、石垣の石積みにも変化が
見られます。二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の
石垣。時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた
「打ち込みハギ」へと変わり、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込み
ハギ」の石垣があります。
また、石垣には、転用石や、約170種類2100個以上もの刻印を見ることができます。
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御橋廊下
藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成
18年に復元。長さ27m、幅約3m。江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行
き来でき、外からは姿が見えない造り。今は通り抜けができます。
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二の丸庭園から天守閣広場へ
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天守閣広場~天守閣
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不明門跡~城外へ
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此処までは、
10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-1 として      
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-27
続きは、岡山時鐘堂~
岡山時鐘堂
紀州藩五代藩主徳川吉宗の時代の正徳2年(1712)に建立されました。当時は、市内
本町に浅野幸長の時に作られた時鐘屋敷があり、南北で呼応して一刻ごとに時を報知
したといわれますが、現在は、この時鐘堂しか残されていません。
この鐘は、藩士の登城と町民に刻限を知らすほか、出火、出水、異国船の出没など、
非常時をいち早く知らせる重要な役目をもっていました。石段を登ると西向きに出入口
があり、一階は土間で、四隅に二階までの通し柱があり、二階の大梁の中心から梵鐘が
釣り降ろされ、撞木によって東西二ケ所から鐘を鳴らすようになっています。屋根は寄棟
造の本瓦葺です。梵鐘は、元は大坂夏の陣で豊臣方が使用し、その後紀州藩が管理し
ていた大筒を二代藩主光貞が、紀州粉河の鋳物師に命じて改鋳させたものとされます。
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徳川吉宗公生誕の地の碑へ向かう
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徳川吉宗生誕地 徳川吉宗公生誕の地の碑
八代将軍吉宗は、NHKの大河ドラマやTVドラマで良く知られるようになりました。地元和歌
山でも人気があって、キャラクターも生まれ、様々なイベント等で登場しています。
実在の吉宗は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の四男として、貞享元年(1684年)10月に、徳
川家菩提寺報恩寺のすぐ西にある吹上邸で誕生しました。母は側室お由利の方です。現在
吹上二丁目には生誕地の碑が建てられています。末っ子ではありましたが、兄達が次々と
亡くなったため第五代紀州藩主となります。質素倹約を旨として、農業の振興や武芸学問の
奨励などを行い、藩の財政の立て直しを行いました。 将軍となってからも、紀州藩主時代の
経験を活かして、後に享保の改革と呼ばれる治世で、幕政を立て直し、江戸幕府中興の名
君と称えられています。
[紀州藩主時代]
・訴訟箱の設置 広く民衆の声を聞くために一の橋の門前に置かれたと伝えられます。これ
は後の目安箱につながります。
・農業の振興のために、新田開発を行うとともに水利灌漑のための用水路や大規模なため
池を造りました。 大畑才蔵や伊沢弥惣兵衛に命じて、小田井用水(高野口~岩出間約33
km)や亀池の造営をさせました。
[江戸幕府将軍時代]
紀州藩主としての実績を活かした治世を行います。とくに力を入れた治水灌漑事業では、
伊沢弥惣兵衛を江戸に呼び寄せ、見沼用水路(埼玉県)など数々の事業を完成させまし
た。こうした努力により、幕府の年貢による収入は大幅に改善されました。
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報恩寺
報恩寺(ほうおんじ)は、和歌山市にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は白雲山。
報恩寺は、紀州徳川家二代藩主徳川光貞が母である瑤林院(加藤清正の娘/父の紀
州藩祖徳川頼宣の夫人)の報恩の為に建立(寛文9年/1669)した日蓮宗のお寺で、瑶
林院をはじめ、光貞夫人の天真院、5代藩主吉宗夫人寛徳院らの墓がある。(因みに
頼宣をはじめ歴代の藩主の菩提寺は下津にある長保寺であることは知られている所)
報恩寺の門をくぐり、奥に向かって歩を進め、石段を登りつめたところに件の御廟があ
る。350年の年月を経た墓石はかなり風化が進み、刻字の判読が困難だが、かろうじて
瑤林院の文字を読みとることができる。
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 徳川家の御廟
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無量光寺
無量光寺(むりょうこうじ)は和歌山市にある浄土宗の寺院。徳本上人大名号塔の寺。
本尊は阿弥陀如来。「首大仏の寺」として知られる。
無量光寺の首大仏
無量光寺の境内には首から上の部分しかない大仏「首大仏(おぼとけ)」が鎮座していま
す。この首大仏は大福寺の蓮心和尚のために多くの人の力で丈六佛(じょうろくぶつ)が
造られたことが始まりとされています。その後、丈六佛は火災により焼失します。悲嘆にく
れた人々は再興を決意し、鎌倉の大仏を目標に丈六佛の溶けた銅でまずは頭部を鋳造
し、その後胴体も鋳造し頭部とつなげる予定でしたが断念し、頭部だけの大仏となりまし
た。その後、大福寺は安政の大地震の際に伽藍も全て消失し、寺の維持が困難になった
ことから明治41年(1908年)廃寺に至り、大仏は無量光寺に安置されることになりました。
首大仏は高さも3mあり、偉容を誇っています。
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刺田比古神社(吉宗の仮親)へ向かう
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和歌山城氏神  刺田比古神社(吉宗の仮親)
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。
『日本書紀』では「狭手彦」と表記。大伴金村の子で、『新撰姓氏録』によると道臣命十世
孫とされる。朝鮮半島に派遣され武功を挙げたという。
通称「岡の宮」。延喜式内社で1000年以上の歴史を持つ神社。頼宣が和歌山城に入城
以来、城の守り神となり、神主が吉宗の仮親になったといわれています。吉宗の出世にあ
やかり、開運の神様として知られています。
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岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電等)
園内には、蒸気機関車くまの号と以前和歌山市内で走っていた路面電車が展示されて
います。
和歌山出身の外交官で政治家の陸奥宗光の銅像、陸奥の生誕地の敷地内に、石碑と
功績が記された看板がある。
和歌山市の「陸奥宗光伯没後120年事業」の一環。「陸奥宗光伯生誕地」と刻まれた石
碑(高さ1・2メートル)と、功績が記されたステンレス製の看板が設置された。
場所は陸奥の生家があった敷地内で、天保15年7月7日に紀州藩の重臣だった伊達宗
広の第6子として誕生した陸奥が、幼少期を過ごしたとされている。
看板には、父の失脚による苦境を乗り越えた陸奥が勉学に励み、後に幕末の紀州藩を
救ったことや、第2次伊藤博文内閣で外相を務め、明治27年に英国との不平等条約改
正を達成、欧米列強に認めていた領事裁判権の撤廃に成功したことなどが日本語と英
語で紹介されている。
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蒸気機関車 C57&チンチン電車
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岡口門~大手門
大手門前にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅
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和歌山駅
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コメント 3

mamu7010

 和歌山城&周辺は、遊びに行くときの通過道です。
ゆっくり歩いたり見たりした事は有りません、多分今後とも、、、
首大仏は、見てみたいです。
ミラーに写った元気な皆さんがなんか懐かしい。

by mamu7010 (2017-10-30 08:13) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
あみま倶楽部から封書で振り込み用紙が届きました、11月1日~
新手帳に変更可能となります、4日のハイキング行く前に手続きし
ないと1回無駄になってしまう。11月は歴史探訪の会が15日で
歩こう会特別企画が21日、例会が28日と何れも紅葉が見頃かと・・
by taharas (2017-10-30 22:47) 

J.S.JUN

おはようございます。
和歌山の綺麗な風景に癒されました。
ありがとうございます。
by J.S.JUN (2017-11-23 08:15) 

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